Aug 2, 2011

時代認識の一致を、単なる偶然として切り捨てることが出来るか

内田樹氏のBLOGを週1くらいでチェックしている。まずは8月1日付で更新されたこのエントリーを読んでみて欲しい。



「ネット上の発言の劣化について」http://blog.tatsuru.com/2011/08/01_1108.php



「子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた」
「マスメディアが一元的に情報を独占する代償として、情報へのアクセスの平準化が担保されていた」
そのような「情報のデモクラシー」の時代が終わったこと。

70年代ごろから「サブカルチャー系情報」がマスメディアから分離しはじめ、
「国民全員が共有できる「マス言論」という場がなくなった。」ということ。
「マス言論というのは、いわば「自分が知っている情報をマップするための、メタ情報」である。」ということ。

マスメディアによるマップ機能の低下が導くのは「自分自身が送受信している情報の価値についての過大評価。」であること。

その結果、「情報の「層」化が進行し、私たちはいま「情報の階層化」のフェーズに入っている。」こと。



この辺の現状認識について、内田さんの見解と、自分の最近の考え方はほとんど一致。
自分としては、そのような「不可逆のプロセス」として進行中である「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報にしかアクセスできない階層」の分極化という現象について、ちょっとした変化球によって明らかにすることが出来るかもしれないとの期待を、「twitter企画」に込めている(それは、順番的には3番目か4番目くらいに位置づけられるねらいだが)。


内田樹氏のこのエントリーの冒頭と終わり。

冒頭
「個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。
攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。」

終わり
「誤解して欲しくないが、私は情報の階層化には反対である。
ネット上に「呪詛」を書き込んでいる諸君は、それによって他ならぬ自分自身を情報化社会の最下層に釘付けにしていることに気づいて欲しいと思って、この文章を私は書いている。
たぶん、ご理解いただけないであろうが。(あ、いけない呪いを書いちゃった。今のなしね)」



数日前にこのBLOGのエントリーにて結論した内容と、今回の内田氏のBLOGの内容もかなりの部分で認識が一致している。
「memo twitter企画に関連して」で書いた結論はこうだ。

「求められるのは…自分の位置を社会の中で正確に見据える観察眼と、その位置に即座に対応出来る心持ちという意味での柔軟性だ。
自分の思想が変わらなくても、社会の中での相対位置は時々刻々と変化していることに自覚的でなければならないだろう。
その視座に立った上で、現在の国民みな躁鬱/総欝的状況を打破すべく、ヘルシーさを恥ずかしげもなく求めていくことの表明。そのような意志が、このtwitter企画の根本にある。




ここに書いた「相対位置の自覚」は、内田氏の語彙で言うところの「マッピング(=メタ認知)」の重要性であり、「ヘルシーさを求めていくこと」というのはつまり、3.11以降、どうも行き場のない「呪詛」の吐き捨て場としての側面を強めているように思うネット空間と、そこに自分も明らかに依存した生活をしていることに対する危機意識の表現だ。内田氏と自分が活用している情報ソースなど質量ともに全く違うのは明らかだが、自分のこの認識が、震災後により強まっていることは嘘でもなんでもない事実だ。ある側面ではあるが、年齢も立場も全く違うにも関わらず、多くの面で時代認識が一致していること。その認識表明の時期がこれほどに近いこと。これを単なる偶然だと切り捨てることは自分にとっては難しい。



私は、ネット上の空間に「呪詛」を書きこんでいたのではなかったか。
あなたは、ネット上の空間に「呪詛」を書きこんではいないか。




まず始めに、自らの立場について、批判的検証がなされなければならないだろう。



共感も否定も同時に引き起こす「議題」が現在性を捉えているのだとの思いを強めている。
「あなたは、何故、今それをやらなければならないのか」に直接答えられるものを提示したい。
その問いに直接的に対峙した上での普遍性の獲得方法を、しばらくは考えていくことになりそうだ。
普遍性を獲得出来なければ、この企画は失敗に終わるだろう。


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