Aug 9, 2011

記録

南博「マイ・フーリッシュ・ハート」一日で読了。自伝エッセイ。バブル期の銀座で鍵盤を叩いて稼いだ金を持ってバークリー音楽院に行ったジャズピアニストが、帰国してまた一から鍵盤を叩くために奔走する。面白すぎる。うつ病になってからも音楽だけは続けられた、ピアノだけは引き続けた、それが南氏の自尊心を回復させていく。菊地成孔が南博に与えた影響、という観点から読んでも面白い。他の著作2つも読みたくなる。

諏訪敦彦「2/デュオ」DVD鑑賞。演技って何だ。セリフって何だ。この映画には人間が映っている。フィクションとドキュメンタリーについて考えざるを得なくなる映画。カメラが素晴らしいと思ったらクレジットに田村正毅の文字。カットバックを使わないのは諏訪監督だったのか、田村正毅だったのか。カット割りなどどうでも良くなってしまう。時間の持続と感情の変化を捉えるためには、ショットを持続させなければならない。人間を見ること。ドキュメンタリーの本質はそこにしかない。

「テレビは見せることではない。見ることなのだ」と書いたテレビマン3人との共通点は、確実にある。
「お前はただの現在にすぎない テレビに何が可能か」に出てくる言葉。

ー君はヒロシマで、なにも見なかった。なにも。
ー私はすべてを見たの。すべてを。だから病院、私はそれを見たの。たしかに。ヒロシマには病院がある。どうして私がそれを見ないでいられる?
ーきみはヒロシマで病院を見なかった。きみはヒロシマでなにも見なかった。
ー博物館へ四回…。
(アラン・レネ「二十四時間の情事」)

「二十四時間の情事」のリメイクとして撮られたのが諏訪監督の3作目「H/Story 」だ。

見ることとは何か。ジャンプカットの使用を拒否し、同ポジのカット替り(つまりは編集において時間の持続をツマンダ箇所)に必ず黒みを入れることのメッセージをヒシヒシと感じた。
しかし、「2/デュオ」のラストショットは、女優を、人間を見ていたか。


監督、キャメラマン、録音。この3人の役割は何か。3人いればドキュメンタリーは作れる。1人でも2人でも作っている人はたくさんいるけど、3人がベストだと思う。
監督の役割は、誰よりもその人間や状況を見ることだ。見ることが出来ないと映画は作れない。そこにいる誰よりも、見ていること。気づいていること。敏感であること。
キャメラマンの役割は、どこから見るかを決めることだ。それだけ。その自己判断が出来ること。
録音の役割は、音だけに集中することだ。監督とキャメラマンが見ていることへの信頼。聴覚野だけをフル回転すればいい。





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