Aug 2, 2011

「観察映画」の評価について

ナレーション・テロップ・音楽一切なしの「観察映画」を提唱し「選挙」「精神」「Peace」と、近年、猛スピードで劇場公開作品を連発しているドキュメンタリー作家と言えば、あまり映画に興味がない人も、なんとなくは聞いたことがあるだろう。
映画作家、想田和弘氏だ。
最近、想田氏が「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」という直球なタイトルの本を出したことも話題になっている(興味のある人は読んでみると面白いと思う。760円。講談社現代新書)。

想田氏の提唱する「観察映画」という方法論と、それに基づき制作された作品に対して、世界の観客/批評家の評価はかなり高い。日本の現役のドキュメンタリー映画作家の中で、世界で最も「今、注目度の高い」作家の一人であることは間違いないだろう。国内でもその注目度は抜群に高い。この間など、先の著書を読んでいるオジサンを電車で見かけた、と同居人が言っていたほど。数々のメディアが彼の「観察映画」を取り上げていることも確か。

が、日本のドキュメンタリー界隈で想田氏の「観察映画」に対して「アンチ」的な態度を表明しているドキュメンタリストも一定数存在している。「アンチ」ではなくとも、“冷笑的な”態度をとる「作り手」がいることは確かだ。

例えば、この番組で土屋豊氏(ドキュメンタリー映画監督)の「感じ」を見て欲しい。10分あたりから。



この「感じ」である。土屋氏のパーソナリティが淡々としている、という事もあるだろうが、やはり何か含ませた態度、挑発的な態度が、懐疑的な態度が、土屋氏のこの「冷静で的確な」とも表現出来るインタビューに現れていることは明らかだろう。土屋氏のインタビューは非常にフェアであり、かつ鋭い。だが、それと同時にやはり懐疑的な態度も自分は見てしまう。この「感じ」。意外と「日本の」ドキュメンタリー界隈の一部で共有されている「感じ」だと思う。
実際、自分の周りにも同様の「感じ」は存在していて、MAKING of MANGAを一緒に制作したKも、こんな「感じ」を少しは持っていると書いても差し支えないかと思う。「観察映画?台本なし?良く見て、良く聞く?やわらかい部分?そんな事、作り手なら誰だって…何を今さら…」という「感じ」があるのだ。

自分は想田氏の映画は非常に面白いと思うし、「観察映画」という、語弊を恐れずに書けば、「ドキュメンタリー映画について考えている人たち」にとってはある種「使い古された」コンセプトについても、この時代に大々的に打ち出すことの覚悟とクレバーさを尊敬している。想田氏のこのコンセプトは、果たして「誰に向けられて」表明されているのか。



「観察映画」に対する、国内での「観客」からの高い評価と一部の「作り手」からの黙殺とも言える評価。
ここに何かしらのドキュメンタリー映画を取り巻く日本の状況が現れているのではないだろうか。
そこには、何か「映画界」が持っている嫌な排他性、玄人至上主義、みたいなものが見え隠れする気もするのだ。



・「アンチ」な人たちが、具体的作品というよりも「観察映画」というコンセプトに敏感に反応しているように見えること
・想田氏は「ドキュメンタリー映画作家」としてのキャリアは、非常に短いということ(=語弊を恐れずに言えば「新人」だ、との評価もあるということ)
・いわゆる「日本のドキュメンタリー界隈」の人たちの意識は「観客」よりも「作り手」に向いているのではないかとの疑問
・想田和弘という作家はテレビドキュメンタリー出身であるということ(1997年から2005年にかけて、40本以上をディレクターとして制作している)
・さらに言えば、もっと前は劇映画の作り手であったということ(例えばこんな短編劇映画(コメディ)を撮っている。想田氏が25歳くらいの時の作品だ)



・それと、この想田氏のブログのエントリー。ここに何か重大な原因が隠されているように思う。
http://documentary-campaign.blogspot.com/2010/11/blog-post_06.html

自分はこの考え方に非常に共感しているのだと思う。
「ブレる」ことについて「ブレない」ということ。これは、映画作りとか関係なく、自分が20歳頃から大切にしている、一つのポリシーみたいなものでもある。「ブレない」人は危ないし、つまらないし、成長しないと思っている。

同じ「観察映画」と銘打って打ち出していても「選挙」と「精神」の作り方は微妙にズレていると感じるし、まだ未見だが、その制作手法において「Peace」についても著書を読む限り全2作と全く同じコンセプトに基づいているとは思えない(想田氏自身、「Peace」は観察映画“番外編”だとしているが)。
そして、それが自然だし、そーゆう立ち位置が自分には一番しっくり来るなーと思っているのだ。その「方法論の一貫性の“欠如”」みたいなものに対して非常に敏感に、否定的に反応しているのが「アンチ」な人たちなんじゃないかなーと思う。
もしくはステートメントを明確に打ち出し、作り手としてのコンセプトと立場を明確に表明するという(ある意味、日本以外の社会で生きて行くためには「当たり前の」行為。想田氏はNewYork在住である)に対する、非常に日本的な「嫌悪感」が表出しているだけなんじゃないか?とも感じていたりして。そんな事、わざわざ言うかよ。的な。自分はそういう事をハッキリと言うことの方が大変だし覚悟がいることだと思っているので、この感じにちょっとイヤな気分になったりする。


ま、人それぞれ、考え方は違って当たり前だけど。
なんかやっぱ、気持ち悪さを感じたりもしていて。

うーん。どうなんですか、ね?これも「呪詛」ですか、ね?




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