Aug 30, 2010

ゼロから始める都市型狩猟採集生活-坂口恭平




久しぶりにガツンと来たので紹介。「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」
坂口恭平の存在を知ったのは、多分2ヶ月か3ヶ月前のDOMMUNEだった。そこでの話が爆発的に面白かったので、あーこんな人が出てきてんだなー。くらいに頭に引っかかっていた。
で、今日、噂の「脳と心」(茂木健一郎と斎藤環の往復書簡)を買いに書店に出向いたら、それが無くてガッカリしてた虚ろな目にこの本が飛び込んできた。購入し、帰宅し、夜飯を挟んで一気に読了してしまった。まあ文体がメチャ平易だし、文字数も多くないのですぐ読める。
個人的には、このブログを読んでる奴ら全てに「今すぐ買え!この本はきっとバイブル扱いされるようになるぜ!」と言いたい。そのくらい、時代性を考えるには読んでおくべき一冊だと思う。¥1200。外食一回我慢して。これだね。
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【坂口恭平(さかぐち・きょうへい)】
1978年熊本生まれ。建築家/作家。
早稲田大学理工学部建築学科卒業後、2004年に日本の路上生活者の住居を収めた写真集「0円ハウス」(リトル・モア)を刊行。2006年カナダ、バンクーバー美術館にて初の個展、2007年にはケニアのナイロビで世界会議フォーラムに参加。2008年、隅田川に住む路上生活の達人・鈴木さんの生活を記録した「TOKYO 0円ハウス 0円生活」(大和書房)を刊行し、翌2009年には自身も実際に多摩川生活を経験する。
他の著作に「隅田川のエジソン」(青山出版社)、「TOKYO一坪遺産」(春秋社)などがある。

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俗に言う「ホームレス」の小屋と生活に焦点を当て、実践的な取材によって、現代資本主義社会の落伍者/負の側面として語られがちな彼らの生き方を別の視点で捉え直す事に成功している。

冒頭の文章と目次だけで、もう面白いのでまずは以下に紹介する。
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きみは何も持たず、着の身着のままで街に降り立った。家は?仕事は?生活は?いったいどうする?しかし、何も持たない人間でも生きていく方法がある。太古の人間が海の幸、山の幸を享受して暮らしたように、ぼくらの周りにも、<都市の幸>が溢れているからだ。きみに都市型狩猟採集民として生きる方法を伝授しよう。

1 衣服と食事を確保する
2 寝床を確保し、パーティを組む
3 生業を手にする
4 巣づくり-準備編
5 巣づくり-実践編
6 都市を違った目で見る

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ダンボールハウスが如何に合理的な建築となっているかを説明したり、現代社会では(少なくとも都市では)金が一切なくとも食に困る可能性は無いという事を具体的例示によって明確にしたり。
「ゴミ漁り」や「廃棄食料をもらう」行為を、積極的に捉え直す筆者の視点は非常に納得性が高く、有効だ。
それらを<都市の幸>と呼ぶセンスには舌を巻くものがある。






~コーヒーorシガレッツbreak~
この本を読みながら、シカゴ時代にホームレスにランチをサーヴするボランティアをやってた頃の経験とかを思い出した。彼らの中には非常に知的な人が何人かいて、ホワイトな裕福層のおばあちゃん達に何故か混じってる変な東洋人の若造に興味を示し、色々と日本やら東洋思想やら(主にZENについて)を質問して来た。ホームレスのおっさん達は皆大抵紳士的で、その瞳にイエロージャップを差別する気配は微塵も感じられなかった。当時、徒歩10分のオークパーク図書館でよくヒマを潰していたのだが、顔見知りのホームレスのおっさんとも良くそこで会った。楳図かずおのマンガの英語版をよく読んでいた俺に対し、彼らは思想やら哲学コーナーから難しげな本を引っ張ってきて読んでいた事が印象に強く残っている。







都市型狩猟採集民達は、<都市の幸>の恩恵をフルに活かして衣食住を確保し、更には「生業」(最もメインとなるのは空き缶集めや貴金属集め)を自らの手で起こし、発展させる。そこには常に自らの頭で考える「創意工夫」がある。
都市型狩猟採集民達は、ついにはインフラまでを自分で得る事になるのだ。水は雨水を有効活用し、電気はソーラーパネルや発電機で「必要な分だけ」を使用する。エアコンまでを所有している人がいる事には驚いた。

半ば、本気で、文部科学省は全国の小中学生に、彼ら都市型狩猟採集民の生活と知恵に触れる機会を与える必要があるんじゃないかと思ってしまう。「生きる力」を最もこの国で持つのは、絶対に彼らだろう。
予期しない天災に見舞われた時、ガチガチのシステムと構造物に囲まれた生活をしている我々軟弱な現代人は、安易に絶望し、生きる術を失ったと嘆くだろう。彼らは恐らく、流れるような軽い身振りで、淡々と「壊れるもの」というコンセプトに貫かれて建築されたダンボールハウスを拵えるのだ。

この本は、価値転覆へのアジテーションでもあり、「不安な存在」としての現代人への一種の強力な励ましともなっている。その励ましとしての本書は、素直に言って非常に感動的だ。

この本は、「人間、どんな状態になっても、ぜったい生きていけるよ」
というメッセージを、実践を通して証明している都市型狩猟採集民達の知恵の結晶を伝えてくれている。

「おわりに」から最後の文章を引用しよう。
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<都市の幸>で暮らそう。
 環境やシステムは何一つ変化させなくてよい。必要なのは、きみ自身の思考の解像度を上げ、無数の視点を獲得し、創造的に生きる方法を見つけることだ。
 そのとき、きみは、政治、経済、労働、あらゆるものから解放され、きみ自身にしかできない生活を獲得するだろう。
















2010/8/27(Fri.)
ハンバーグと付け合せ。ポタージュ。白飯。

2010/8/28(Sat.)
冷麦に納豆とかトマトとかナスとかシソとかを味付けしぶっかけたヤツ。ポタージュ。

2010/8/29(Sun.)
野菜と鶏肉を素揚げして甘酢をかけたヤツ。キノコのすまし汁。ほうれん草ゴマ和え。玄米。



























Aug 20, 2010

雑文 忘れること、学ぶこと、生き方の問題



普天間基地移設問題は今どうなっているのだろう?
鳩山元総理は何故辞めなければいけなかったの?
リーマンショックってのは結局何故起こったのだろう?

もう少し遡ろう。

あのイラク戦争は結局何故起こったのだろう?
911の根本原因は何だろう?

もっと遡ろう。
地下鉄サリン事件の発生メカニズムは解明されているの?
第二次世界大戦下には何故あんなに抑圧された社会が生まれたのだろう?
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「新聞を読んで、ニュースを見なさい。」
これは誰もが学校の先生や、家庭で言われてきた言葉だ。
勿論、今自分の生きている社会や世界で一体何が起きているのかを知ることは重要だ。

新聞もテレビのニュースも、「新=NEW」であり、即時性の高さに特化したメディアだ。
毎日、目まぐるしく変化する経済情勢、社会情勢、政治。それを追っていく中で我々は疲弊する。

どんなに意識的に社会に興味を持って生活している人でも、新聞やニュースのペースに合わせてしまうと、
ある重要な事件や出来事が起こったとしても、それらはすぐさま忘却の彼方へと放り込まれる。
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ある事件が起きる。新聞記者、テレビの報道記者は、すぐさま調査する。どちらも一日勝負だ。
調査し、情報収集し、まとめ、選択し、そこに識者のコメントなどの意味付けを振りかけて世に送り出す。
次の日、また別の事件が起きる。その次の日も、また次の日も。どんどん情報を量産する。

例えば、誰かが誰かを何らかの動機を持って殺したとする。
加害者、被害者は勿論の事、加害者家族、被害者家族、また直接的な関係者の人生を一変する出来事だ。
そこには奪われた命があり、奪われた生活がある。

我々は無意識の内に「怖い」と思う。そして、残酷にもバラエティを見てメシを食って寝るのだ。
(何だっていい。音楽を聴いて、小説を読んで、映画を観て、運動をして、風呂に入って、もしくは何もしないで)

「さあ、今日も仕事だ」
我々は忘れる生き物だ。
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必死に自分の生活を、自分の家族の生活を、守っていくためには、いちいち殺人事件に立ち止まってはいられない。
その実感は誰もが切実に理解出来る。

だがしかし、我々は忘れる生きものだが、我々は学ぶことの出来る生きものだと信じたい。
「どうせ何も変わらない。全ては繰り返される。」という諦念を示すには、私はまだ早過ぎる歳なのだ。

遅いメディアがどうしても必要だと思うのだ。何かを静かにじっと見つめ続ける目。
世の中にはそういう目も絶対に必要だと思うのだ。
そんな目がないと、我々はいつまでも忘れ続け、いつまでも学ぶことが出来ず、いつまでも同じ過ちを繰り返す。

いや、正直な話、「人間なんてどうせそんなものだ」という想いはあるのだ。
「世の中は変えられないし、悪はいつまでも蔓延るし、不条理はすぐ隣にあるし、悲劇は繰り返される」
いや、正直な話、「どうせ、そうかもしれない」という気持ちにはなるのだ。

「人間なんて」と葛藤や矛盾を抱えながら、「でも。」と言うか言わないか。
これは「実存」としての生き方の問題だ。

そう、これは生き方の問題なのだ。
どんなに「生きづらい」と言われる社会であろうが「経済が厳しい」と言われる社会であろうが、
この社会にはどんな時代でも一定数、この「でも。」と言わなきゃ生きられない人間がいるのだと思う。

「世界はもっと豊かだし、人間はもっと優しい(森達也)」ハズだろ?














Aug 10, 2010

佐々木敦「ニッポンの思想」、読後のアウトプットあるいは10年代が要請する物語について




久しぶりの新書。良書。

80年代からのニッポン(≠日本)の思想が、主に音楽と映画を主戦場とする批評家の著者が、「一読者」としての理解を分かりやすくまとめた本。

80年代。浅田彰「構造と力」から全てが始まり、中沢新一と共に「ニューアカ」と呼ばれ、思想がファッションになり蓮實重彦と柄谷行人もその波に乗り一時代を築く。
90年代に福田和也・大塚英志、宮台真司が出てきて、ファッションや理念的になった思想をリアルでシラけた日常に引き戻す。
で、ゼロ年代の寵児、東浩紀が思想界で一人勝ちしている状況まで(2009年まで)を、「超ざっくり」書いてある。

超ざっくりと言っても、俺のような門外漢にとっては、非常にためになった。
何より、思想の内容には簡単に触れるに留まり、80年代や90年代、ゼロ年代の時代感と各論客間の関係性が重要視されて書かれており、門外漢の為のまとめ本になっている。

いかにも「新書」的読みやすさ。正しい「新書」だった。



2010/8/7 麻婆豆腐、豚汁、サラダ(トマトドレッシング)、白飯


2010/8/8 アジの干物焼、春雨サラダ、もやしと納豆炒め、玉ねぎとえのきの味噌汁、わかめご飯


2010/8/9 春巻き、卵スープ、シシトウのベーコン巻、ちくわきゅうり、トマト、春雨サラダ、白飯



追記:「読後のアウトプットあるいは10年代が要請する物語について」

これまでの「物語」:主人公の全能感→何かのきっかけによる挫折(精神の死)→理解者による立ち直り(復活)
これからの「物語」:挫折を味わうまでもなく主人公は精神的に死んでいる→共同体による承認による復活

これからの「物語」に要請されているリアリティとは、これまでに予め担保されていた第一幕での全能感が初めから喪失している場所から始まる事にある。つまりは主人公は物語冒頭で死んでいる。しかしながら、その死は戦後高度経済成長期からバブルまでに青春期を過ごした事のある世代が守ってきた「古き良き時代」の価値観という仮想的/無効な内部での死である。
主人公は実はその仮想的内部がゼロ年代を経由し10年代には崩れかけていることに徐々に気がつく必要がある。そしてそれを気付かせる事が出来るのは政治でも経済でも思想でもなく、共同体として、もしくは実生活の中での近しい「他者」である。それは必ずしも血縁関係や地縁関係である必要はない。そこに気付いた主人公が価値観を転換することで新しい生として「復活」する。もしくは、復活の兆しが見える場所まで到達する。
対比的に、旧来の価値観を更に発展させていく「同世代」も居るはずである(つまりは新自由主義を謳歌するようなタイプ)。こちらのタイプの破滅を描く必要は全くなく、両者ともに上手く棲み分ける「物語」が必要。

以上、備忘として。



追追記。顔で見る「ニッポンの思想」















Aug 6, 2010

アブストラクトとシュルレアリスムとドキュメンタリーの相似性についての覚書



twitterに書くと、思いつきも気づきも「流れて」しまうのでここにメモ。

●アブストラクト●
所謂、アブストラクト(抽象的)な表現を昔から好んでいるのだが、例えば<アブストラクトヒップホップ>と呼ばれていたような音楽(その定義は今になっても曖昧だが)が好きだ。DJ KrushやらTBH。そしてMassive AttackやPortis Head。また、絵画の世界では抽象表現主義と呼ばれるジャクソン・ポロックやマーク・ロスコ好きだ。で、何故好きなのかはよく分からないでいたが、非常に感覚的に素朴に好きだった。

●シュルレアリスム●
サルバドール・ダリが中学の美術の教科書に出てくる絵画で最初に好きだと感じた画家だったり、フロイトの精神分析入門が世界文学としてまともに読んだ最初の本だったり、お笑いで言ったら初期のふかわりょうが大好きだったり(彼は<シュールの貴公子>というキャッチフレーズを持っていた)、ラーメンズをパクって学祭で演じたりしていた。つまりは、青年期においてシュルレアリスムに淫していた。

●ドキュメンタリー●
10月から通う予定の学校の入学課題みたいなもので、簡単な文章を書いたのだが、そこに「ドキュメンタリー」とは「わからないものをわからないままに現象学的括弧に入れ、批判的(もしくは愛のある)眼差しを持って見つめ続ける事で対象に接近する行為」だ。みたいな事を書いた。また、ドキュメンタリーの本質は「事前の取材や調査による問題意識から、撮ろうと思っていた対象や状況が、実際に人に会って撮っていくうちにどんどんブレていくこと」にあると考えている。要は「思っていたように撮れない」というのがドキュメンタリーの宿命なのだ。
(この覚書の主題とは無関係だが、「対象に接近すればするほどよく分からなくなる」というのはいわば現代を支配している「モード」だと思う。それはナノの世界を観察できるようになったボーアの時代に、電子も原子も粒子であると同時に波であり、その存在は確率的にしか決定されないといった世界観が起因となっているはずだ。)


と、異なる3つの関心事について考えていて、何か共通点はあるのかなーと疑問を抱いた。
恐らく共通点は「アブストラクト」も「シュルレアリスム」も「ドキュメンタリー」も「よく分からない」という事だ。
よく分からないものに惹かれる。と書くとちょっとバカみたいだが、恐らく根本的興味が、そこにある。

「よく分からないが、そこには必ず本質的に重大な何かがある」
今後、この感覚を意識し大事にすること。