Jul 28, 2011

memo twitter企画に関連して

企画案1.と関連する必読資料として。

「アーキテクチャとクラウド―情報による空間の変容」


「コンピュータのシステムやプログラム、インターネットのサービス、人間をコントロールする環境管理型の技術、社会やモノの構造・深層、そしてそれらの設計などを意味し、近年、多様な場面で使われている「アーキテクチャ」。また、多様な展開をしているGoogleや、インターネットに常時接続可能な環境がインフラストラクチャーとして整備された今「クラウド」と呼ばれるネットワークのあり方が現実化している。クラウドによる変革は、かつての電力によるそれにたとえられ、社会や産業の構造、都市や国家のあり方を変えるとも言われている。

情報環境のアンビエント化・インフラ化が、地球規模でスピーディに進行し、生活やコミュニケーションのあり方、内面の領域にまで深く関わりつつある中で、建築・都市・空間はどう変容していくのか。それぞれ専門の著者による、対談・インタビュー・リサーチを収録。」


注意1:企画が取り扱おうとしているテーマにどんぴしゃすぎる書物なので読解には慎重を要すること。
注意2:単純に面白「すぎる」ため、この書物の対談内容に引っ張られすぎないようにすること。
注意3:アーキテクチャとクラウドに「取り残された」人々の視点を無視しないこと。

***************************************************************************************

【2011.7.28現在での本企画に関する考察】

情報により変化する空間(=世界認識)の背後には、情報「なんか」では変わらない空間(=世界認識)が必ずあるはずであること。多様化する世界認識の中で「common」として各人の中に機能している(はずである)スペース(それは家族なのか、隣人なのか、故郷なのか、美なのか、夢なのか、生活なのか、消費なのか、ゴシップなのか、あるいはその全てなのか。それはまだ分からないが)を映像化するための演出方法についてより具体的に考える必要がある(と同時に、そこがある程度確立されれば、この企画は映像作品として成立する可能性が格段と高くなる)。

変わる/変わらないという大雑把で素朴な対立項としてではなく、エントロピー増大の速度差をこそ丁寧に扱う必要があること。



ここで、少し丁寧に、10年代的な存在の方法について、筆者の中である程度固まっている考えをここに示しておく必要があるだろう。

ある土地とその周縁の密な人間関係によって担保されているコミュニティとしての「生活」という価値観は、書くまでもないがとっくに崩壊していること(それは「昔は良かった」という60代以上の人が持つ一種の退行的憧憬の中にしか存在し得ない。特に都市生活者の場合にはそれが顕著であり、そこに20代都民の自分が共感することなど全くの無意味に等しい)、それに対するカウンター(=反抗)としてのノマド的思想についても、現時点で安易過ぎるものでしかなく、単に「今とここが余りにも酷くて辛すぎるから、逃げられるところまで逃げ続けようぜ(=安定しない事が一番のリスク管理だと無理にでも自分に言い聞かす事によって)」という典型的に80年代的なスノッブ(相対性理論という「退廃的な心境の中の軽さ」をテーマにしたバンドが生まれながらに不景気しか知らない陰鬱であるはずの世代の圧倒的人気を獲得することから明らかなように、もしくは菊地成孔ファンである20代が誰でも一様に、図らずも醸しだしてしまう貧乏臭さから明らかなように)への叶わないゼロ年代〜10年代型の「憧れ」にしか過ぎないこと。80年代的スノッブは経済的基盤が確立されていたからこそ可能であった事実を直視すべきだ。表層だけそれを真似ようとしたって貧乏臭く、かつ実際に貧乏(80年代と比較して)である、という事を忘れてはいけない。ようは個人的な付き合いがある人のうち何人かが「異常に金回りが良い」という構造が80年代にはあった訳だけど、10年代でそんな関係は全くリアリティを持たない訳で、そんな「みんな貧乏」の中でノマド的あり方を模索しようとしたって、誰一人周りの人間がその生活を担保する余裕を持っていないのだから、無理があるということだ。そうすると、次の思考の行く先はまたもや安易にも「じゃあみんなノマドになればいいじゃん!」になる訳だが、世の中の8割は「安定志向」だって事実はちょっとニュースやら記事やらを読んでいれば明らかで、その思考があまりにナイーヴで現実を見れていないと指摘されても反論は出来ないだろう。もう一つのパターンとして「じゃあ勝ち組がノマド的生活を担保してくれればいいのに」というものがあるが(これには筆者は理想として共感する部分もあるが)、そもそも勝ち組はノマドとしての生活を拒否した結果として運良くその立ち位置を獲得しているので、基本的にはノマド的思考を単に負け組として捉えることで自我を相対的優位(それも幻想にすぎないわけだが)の中に保つ訳であり、そのようなアイデンティティによって生活している人たちに共感を求めることもあまりにナイーヴだと言えるだろう。

その両方(コミュニティとそのカウンターとしてのノマド)に囚われないあり方を模索するのが10年代であることは、2008年のリーマンショック以降、3年も過ぎた現在において火を見るよりも明らかなのにも関わらず、相も変わらずそのどちらをお前は(もしくは俺は、私は)選んでいるのだ!というような不毛な見当外れの議論を一蹴するための考察と議論が不可欠だろう。何故か3.11以降、この議論は進んでいないのではないかというのが筆者の感覚であり、むしろ議論が後退していっているような感覚が強い。一種の忘却の作用が強く働いているように思われる。

70年代(=90年代)的な存在の仕方は今後の世界経済を考えて見れば不可能な事は明らかであり、80年代的な軽さをオウム/9.11/リーマンショック/3.11を青年期に経験してしまった我々が体現することも不可能であり、ゼロ年代的な「何も無い」状態に耐え切る事も難しいと思われる10年代には、冷静に考えてみれば、戦後の全ての文学・芸術・映画・音楽から学ぶべきことはすでに何も無く(それは構造的にという意味で)、誤解を恐れずにここに言い切ってしまえば、現在生きている全ての「先輩」達の「グッドオールドデイズ」に囚われた助言は我々の世代には端的に何の役にも立たないということだ。

80年代以降生まれの「作り手」は、戦後よりも戦前に目を向けなければならないだろうし、国内よりも国外の状況に敏感でなければならないとだけは、自信を持って書くことが出来るだろう。

ただ、その仮定の中にあるエクスキューズとしては、60年代のあり方については常に目を向けなかればならないのかもしれない。70、80、90年代はもう消化した上で無視してしまって良いと言ってもさほど問題ではないが、60年代は無視出来ない。
そういった意味でテレビがその方法論を獲得していった60年代後半についての、テレビマンユニオン創設者3人の「TBS闘争」のルポタージュは今こそ最重要テキストである事は揺るがない事実であるし、宮崎駿が「コクリコ坂から」の時代設定をわざわざ1963年に設定した事の意味については大いに考える必要がある。

全共闘、全共闘ジュニア世代の死にかけていた残党が、ここぞとばかりに反原発デモを繰り返し(それは明らかに左翼的意義を付加されて「しまって」いる)、その60年代末期から生まれた空虚な熱狂とでも呼ぶべき熱量に当てられてしまい、目も当てられないような恥ずかしさを露呈している同世代を冷めた感覚で捉えつつも、その政治性をあくまで「空虚な熱狂」と捉え、冷めながらも意志を持ち続ける事が出来る初めての世代として、80年代以降生まれの世代は社会の中で機能していくしかないだろう。

ある一つの場所に腰を据えたような「大木」としてのあり方も、どこにも根を張らないで漂流する「流木」のようなあり方も、10年代はあらかじめ奪われているといっていい(と、ひとまずしておいて)、
「どこにもベースがないがあらゆる場所に偏在している」という屈折したあり方を健康的に獲得するという方法論しかあり得ないんじゃないか?



と、ここまで来てようやく、10年代的な存在の方法と、本企画のテーマをギリギリ接続しようとしている訳だが、「どこにもベースがないがあらゆる場所に偏在している」という方法は、まさしくアーキテクチャとクラウド的な存在感であり、twitterやfacebookを代表とするSNSやBLOGが提供しているもの、そのものである。80年代以降に生まれた現在の20代から30代あたりの世代が当たり前にネットを駆使して、かつそこに「依存」しているように見られる事には、時代の必然があると考えた方が自然だ。社会に偏在するためにネットという世界は最も適したアーキテクチャを構築してきたと考えることが出来る。物理的に近い人間関係が強固に互いの生活を担保したようなコミュニティ的世界がなくなり、かつノマド的な生き方が経済的に不可能(に近い)である世代が、最後の一手として頼るのが「偏在」機能を強力に持っているネットだとの見立てはそれほど突飛なものではないと思う。それを「前提」として、その構造的状況の中でどう「ヘルシーさ」を獲得していくのか。それこそが我々が考える問題ではないか。重要なのは自分たちのいる位置を正確に認識した上での「ヘルシーさ」の獲得なのだ(飲み会でこれを初めて語った時は誰にも理解されなかったが)。

少し攻撃的になるかもしれないが、おじいちゃん、おばあちゃんの「知識人/文化人」が電車でスマートフォンの中の世界に淫して閉じているように見える「若者」を批判すること、なんて、そんなものは我々は無視してよいのではないか。先にも書いたが、彼らの経験は端的に我々の世代には「あまりにも状況が違いすぎて」役に立たないと見切った方が健康的だと思うのだ。ネットの世界に自らが遍在すること、それが我々が社会の中でなんとかその役割を見つけ機能していくためのやむにやまれぬ選択であるということを彼らがどれほど真実味を持って理解できるだろう(出来る訳がない!)。

「twitterを通して見る世界」というコンセプトの射程は、狭義では「ネットと現実」という二項対立とか、ネットネイティヴとネットアンネイティヴとの世界認識の断絶であることは間違いないが、広義にはゼロ年代から声を大にして叫ばれてきた「若者の生きづらさ」に直接的に接続していることは、ここまで読んでいただいた方には何となくご理解いただけたかと思う。

我々は、google+のサークルというコンセプトについて注視すべきだ。技術は時代を最も分かりやすく且つ敏感に反映している。facebookとtwitterが爆発的にその存在感を増したこの数年の中で、googleが最重要コンセプトとして持ち出したのが「排他性」であること。あくまでネットの中にあるソーシャル・キャピタルは現実世界のソーシャル・キャピタルの構造を維持しながら補強する機能として存在するのだ、という高らかなる宣言がgoogle+であることをよく考えなければならない。

「そこに一時的に腰を据えられるなら据えればいい。据えられないなら据えなくてもいい。ただ、ソーシャル・キャピタルだけは確保しておけ。そうすればそれなりに死なない。」

求められるのは、根を張る努力や根性ではなく、漂流する覚悟でもない。

自分の位置を社会の中で正確に見据える観察眼と、その位置に即座に対応出来る心持ちという意味での柔軟性だ。
自分の思想が変わらなくても、社会の中での相対位置は時々刻々と変化していることに自覚的でなければならないだろう。
その視座に立った上で、現在の国民みな躁鬱/総欝的状況を打破すべく、ヘルシーさを恥ずかしげもなく求めていくことの表明。そのような意志が、このtwitter企画の根本にある。



_

No comments:

Post a Comment