Jul 18, 2011

「世界なう」に漂流する「わたしなう」の覚悟はあるか

さて、ここにも書いたように、先日twitterをやめてしまったため、多少の「禁断症状」とでも呼ぶべきものが時たま出てきており、iPhoneをなんとなくトイレに持ち込んでポチポチやろうとして(しかも無意識に!)「あっtwitterアプリないのか」という瞬間や、寝転がりながら何となくiPhoneをポチポチやるときに「あっtwitterやめたんだった」みたいな瞬間があるという事態になっております。そんな感じで、世界中のネットサーバに膨大に存在する(そしてそれは随時更新されている!)情報が作り出している仮想的な「世界」に自分がどれくらいどっぷりと依存していた/いるのか、という事を「認識/思考/予測」といった概念的なレベルからではなく「親指が押すアプリが無い」という物理的な実体験として経験するような、ある種実に現代人的な週末を過ごしているのですが、そんな中で一つ明らかになったことは、twitterをやめる=BLOGの更新率が上がる。という事でありまして、まあこの症状はすでに数年前のmixi退会直後1ヶ月程度の期間に経験済みのことでありますが、やはり今後のいくつかのエントリーはその症例として立ち上がってくるであろう事を冒頭で宣言しておくべきでしょう。それがtwitterのように断片的な、ラーメン食った(写真付き)・なでしこオメデトウ!・渋谷へ向かうなう、のような代替的な形をとるのか、今回のような超長文というtwitterによって抑圧されてきた思考形態として反動的な形をとるのか、については明記しかねるところです。

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ここで予め、少し、「筆者の状況なう」をご説明させて頂きましょう。

1.ついさっき、「なでしこJAPANがワールドカップ優勝」という、エキサイティングな経験を生中継のテレビにより経験したばかりだという事。
(余談ですが、澤選手の2点目については奇跡としか言いようがありません。そしてUSA as No.1という建国以来ただ一つ守ってきたアイデンティティを経済的に急速に失いつつあり、アフガニスタンからの撤退と軍事費縮小を余儀なくされ、スペースシャトルをもうこれ以上打ち上げる予算がなく、宇宙開発の面でロシアを打ち負かす事がとうとう叶わなかったという状況の中で、すでに自信を失いかけていたアメリカ国民が、大戦以降は無意識的に「属国(=可愛いペット)」として認識している東洋の小国Japanに対して、絶対的な優位を誇っている「フィジカル」なスポーツで敗退してしまったというショックはあまりにも大きいと予測することは容易であり、教育がほぼされていないようなバイブルベルトのような地域で今後多少のヒステリックな「日本嫌悪現象」が生じる事は間違いないでしょう)

2.冒頭に述べた通り、約1年半ヘヴィユーザとして使用していたtwitterを退会したという事。それはつまり、仮想世界において「AAAIAUA」という名前によって場所と時間を超えて存在していた「現在」の喪失であるという事。

3.ここ最近「お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か」という日本が誇るテレビマン3人のテレビ論を少しずつ読んでいるという事。テレビは生、現在性、ジャズのような即興性のメディアだとの議論がなされている事。

この3つの状況に共通するもの。それは「現在性」という問題です。

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twitter以前から、「自分に何が起こったか。」を人に伝えたいとの思いは全世界共通/全時代共通の基本的な人間の欲求であるという事は、マズローの5段階説を考慮してもある程度は正しいと言えることでしょう。認識欲求であるとか、自我欲求を満たすために、現代人はネットというツールを駆使している訳です。これは裏返すと、現代は物理的なレベルで認識欲求や自我欲求が満たされにくい時代だとも言うことが出来る。時代性がtwitterの普及を導いたのか、twitterが予め存在していた時代性を促進したのか、それとも両方が相互的に作用しているのか。これも面白い議題ですが、本論から逸脱しすぎるので省略しましょう。

さて、twitterの「いまなにしてる?」という問いかけの新規性/革新性は、従来いつの時代、どこの土地においても当たり前に会話の発端になっていた「今日どうだった?=How's today?」もしくは「最近どうよ?=What's up?」といった「現状確認」に対して使用されていた「一日/数日/数時間」という単位を「いま。なう」という無限小(いまは瞬間ですから、それは無限小の単位です)に置き換えてしまう事によって、24時間いつでもどこでも好きな時に好きなだけ認識欲求を満たしてくれる(自分のフォロワーが自分のtweetを「見てくれている」という認識によって)といった、いわば全てが「24時間化」されていく21世紀の必然にフィットしたコンセプトにあったと言えます。

twitterに限らず、世界中に張り巡らされている「インターネット」は、24時間、どこかで誰かがその存在を主張している、そしてそれがダイレクトに見えてしまうという強力な機能をあらかじめ持っています。
「インターネットへのアクセス権」は、少々乱暴に言い換えてしまえば「現在性へのアクセス権」です。
その「現在性へのアクセス権」は、以前は物理的な距離に縛られており且つその存在時間に対して鈍感であった「私という存在」を、「私という存在なう」もしくは「私という存在at 9pm 2011/7/18」に置き換えてしまった。私という存在に時間という属性を強力に付加した。それがサーバ上に残るため、あらゆる過去の時間に存在していた「私」と「あなた」という幽霊が半永久的にさまようのがネット空間という事になっている。そしてそれは正に「今」も増殖している。更新されている。
そのような「現在性の民主化」とも言えるような現象は、あらゆるSNSによって世界的に、爆発的に起こっていると言えます。
忘れてはならない事は「インターネット上の存在」は全て幽霊だ。という事です。それらの存在はアップした瞬間に、幽霊(=過去に存在し、今は存在しない)になります。現実の存在とは基本的に別の性質を持っていると考えるのが一般的もしくは健康的と言える。現実の存在というものは時間によって切り取る事が出来ないからです(それは死者にのみ可能です)。

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さて、ここで、テレビについて考えてみます。
テレビの衰退は「番組の質が低くなった」事が原因なのか、「メディアとしての役割/ジャーナリズムとしての機能を正常に果たしていない」事が原因なのか。実はちょっと本質的には違うんじゃないか。という疑問を抱いています。
一つ、仮定として「テレビが現在性を失った」事が最も本質的なテレビ衰退の原因だとしてみましょう。
それは「テレビ業界」の中に存在する問題なのか。それも多少はあるかもしれないが、根本的には違うのではないか。「現在性」を「インターネット」が急速に獲得した事が真因なのではないかと疑っている訳です。

テレビのニュースで流れてくる事。それを「私はすでに知っている。インターネットを通して」。これが現在のテレビニュースが抱えてしまっている致命的な弱点です。テレビのニュースはネットユーザにとってほぼ全てがオールドになってしまった。ここ数年で、従来テレビが独占していた「現在性」をネットが代替出来るようになっています。ニコニコ動画が生放送を始め、USTREAMが普及し、twitterが「ネット上の生」を急速的に広める機能を担っている。いや、ネット上の生だけではない、現実の「生」すらtwitterによって広められる。「現在の渋谷」の状況をテレビで知ることは出来ないが、twitterで「渋谷」を検索するとそれは容易に獲得する事が出来る(時には写真や動画付きで)。

3人のテレビマンが「お前はただの現在にすぎない」というタイトルの本を出版し、テレビの本質は「現在性」であるとの思想にたどり着いたのは1969年です。しかし、40年以上経った現在でもその本質は変わっていない。テレビとは「現在性」のメディアのままであり、そこにメディアとしてのユニークさと思想がある。逆に、現在性にしか頼ってこない40年をテレビが過ごしてしまったとも言えます。番組の面白さの問題でも、情報の質の問題でもなく、「現在性をインターネットが代替してしまっている事」がテレビ衰退の原因です(もう言い切ってしまいましょう)。ネットが現在性をテレビから奪った。スマートフィンにしろiPadにしろ、手軽に手に入るnotebookにしろ、それらはネットというチームメンバーとして存在するハードウェアです。テレビが現在性を何か新しい形で再獲得出来なければ、テレビというメディアが今後も衰退し続けるのは必然とも言えるでしょう。

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さて、なでしこJAPANの活躍を生中継で見た事を発端としながら、twitterとテレビの現在性を考えてみましたが、2010年代は、あらゆる場面で「現在性」がキーワードになるのではないか。とまで考えています。
twitterユーザは今後も増え続けるでしょう。多くの人達が「わたしの現在性」を容易に獲得します。
1960年代当時のテレビの爆発的普及を振り返ってみても、「現在性」というのは明らかに麻薬的な面白さを持っています。
「今日何してた?」はすでにあまりに素朴で牧歌的な問いにすらなっています。「いまなにしてる?」の氾濫によって。

このような時代に、増強される人間の能力は瞬発力でしょう。我々はいつでもダッシュする事が求められる。ジャジーである事が求められる。ネットネイティヴな世代が社会を動かす年齢層になるにつれ、物事が判断され決定するスピードはどんどん加速されるでしょう。

ネットネイティヴな世代がデフォルトで経験している「わたし」は「わたしなう」であり、「あなた」は「あなたなう」です。「あなたなう」に瞬間的に、ジャジーに(即興的に)反応した「わたしなう」がいて、その「わたしなう」にまた反応する「あなたなう」がいる。そのような「現在性同士のコミュニケーション」による世界が形成される。

それはつまり、今まで何か固体として存在していた「世界」が、絶えず更新される流体のような「世界なう」へと姿を変える(認識が変わる)という事です。固体として認識していた「世界ハヴビーン」と相互作用する、固体としての「わたしハヴビーン」は、ネットという熱源によって現在性の流れの中にどんどん溶けていく。本来、持続の最終的な瞬間として存在していたはずの「現在」が、その前にある長年の(もしくは無限の)「持続」を忘れ「現在性同士のみ」でコミュニケーションを続ける。もしくはそのような流体同士のコミュニケーションが、固体同士のコミュニケーションが占めていた場所を急速に(急速にという点が重要です)奪っていく。そのようなコミュニケーションにより立ち上がっていく(いや、流れだしていくという方が正確でしょうか)「世界なう」。世界の粘度は年々明らかに減少していると言えます。twitterにおけるコミュニケーション/他者の存在認識がTimeLineという「流れる」インターフェースとして表現されていることは、世界の粘度減少と無関係ではないと考えるのが自然でしょう。手紙の文字は炭やインクとして固体として紙に存在しており、紙ではないEメールや携帯メールも「流れる」事はないコミュニケーションでした。しかし、twitterは「流れるTL」としてその本質的な流体の性質を明らかにしていると言えるでしょう。


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さて、勘が良く、また忍耐強いここまでの読者の皆様は、もうお気づきかも知れません。
私は先日、我々の「現在性」を強力に担保しているツールとしてのtwitterを退会しました。
それが何を意味しているのか。潜在意識的に「現在性」の氾濫が持つ危険性をこれまでになく強く感じているからでしょう。


我々の認識が、「世界」から「世界なう」になった時に、我々は何を得るのか。同時に何を失うのか。致命的な何かを失うのではないか。我々には流体としての「世界なう」の中において、流体としての(現在としての)「わたしなう」として存在していく覚悟が果たしてあるのか。そこで従来固体としての「わたしハヴビーン」によって保たれていた自我を失う人達が大勢現れるのではないか。流体としての「世界なう」に固体としての「わたしハヴビーン」は従来通り健やかに存在出来るのか。流体としての「わたしなう」へと自らの存在を器用に変化させていけない人たちは一定数存在するはずであり、その人達は固体として「世界なう」の流れの中に溺れ苦しむのではないか。流れるような自我を形成出来る事が「世界なう」の要請になってしまったときに、「流されない」人間は溺死しないか。


どうやら、今後も思考を続ける必要がありそうです。
危うさを感じるのは杞憂でしょうか。皆様、どうお考えでしょうか。

なでしこJAPANの優勝を祝いつつ、私は今、得体の知れない危機感を感じています。
適応力/柔軟性が何よりも重視されるこの時代/この国が、失い続けてきたものがあるはずだと。
固体として存在する人間がいない社会は、果たして今後良い方向へ向かう事を期待出来るのかと。
個人としての生活は流体としての「わたしなう」の方が社会との親和性が高い事は明らかですし、それがスマートです。
この国の親や教育は、流体としての「わたしなう」を量産してきたし、今も量産していると言えるでしょう。
しかし、社会には一定数の固体が必要だったし、今後より必要になるのではないかとの思いが強まっています。
ポストモダンなどとっくに終わっています。

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久しぶりに長文を書いて、あまりの脈絡の無さに自ら驚きつつ
同時に、「フォロワー/リプライ」を気にせず長文思考出来る快感を思い出しながら


量として、約38連続tweet分の考察の跡を

海の日の晴れた朝に


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