Sep 30, 2011

ドキュメンタリーについての散漫な試論

YIDFF2001における、審査員としての佐藤真の言葉

「ドキュメンタリーは、世界を批判的に映し出す鏡である。社会変革の道具や政治的主張のための武器としてではなく、あくまでも冷徹に世界のあり方を見つめ続けていくことによる「映像表現による批評行為」である。これが、ドキュメンタリー作家としての私のささやかな指針である。したがってその批評性とは、“真実”などは存在しないこと、現実は既にフィクションを内包していることに鋭敏に反応せざるをえないだろう。たとえ無垢な現実の断片がフィルムに映し出されたところで、それを再構成することで映画は紛れもなくフィクションになる。ドキュメンタリーの批評性とは、そうやって再構成されたフィクションが、当の現実をどの様に批判的に映し出すかによって係わっていると私は考える。」


この文章をたまたま久しぶりに読んで、思った事をツラツラと書いてみたい。この文章では推敲は極力さけるので、色んなところに寄り道するかもしれない。それをそのまま、この私的(そして恐ろしくも無限大に公的な)メディアに記録するという意味で、散漫な試論とタイトルをつけよう。

この佐藤真の文章は、ドキュメンタリー映画に関わる「日本人」としては余りに有名であるが、非常に端的に、そして明快に、彼が捉えていたドキュメンタリー映画の本質を表しており、且つ、佐藤真以降のドキュメンタリー作家達が(敢えて批評家は除こう)一種の呪縛とも言うべき粘度でもって、反芻させられてきた文章でもあると思う。
これは、個人の認知限界の話でもある。ドキュメンタリーにおいては、「神の視点」は存在しない。ここで言う「神の視点」とは何か。

フィクション映画で構築される世界では、作家そのものが一種の「神の視点」として機能する。
そこでは、現実を虚構化したものが、つまりは、現実を、「その作品内世界における神の視点を持つ監督」が、あらゆる手段(脚本、役者、美術、照明その他全て)を用いて虚構化した世界が映しだされる(その中にもドキュメンタリー性は含まれはするものの)。フィクション映画において「監督」と呼ばれているその人は、その現場において、その作品世界内における全てを把握し、制御することの【許されている】全知の神、あるいは、それを志向している存在だ(もちろん、この監督=神という立場の脱構築を図ってきた作家も存在するが、諏訪監督とかね)。撮影対象が虚構化された現実である限りにおいて、監督は神の視点を持つことが出来る。

しかし、ドキュメンタリーにおいては、作家は「神の視点」を持ち得ない。ドキュメンタリー作家は、撮影現場において、実名の、認知限界を持つ感覚器官の統合体として、現実に内包された状態で存在する。その撮影対象は虚構化されていないため(正確には、その虚構化の程度がフィクションと比較して極端に小さいため)、ドキュメンタリー作家はやはり神の視点を持ち得ない。もしくは、神の視点を持ちながらその世界を「制御」していく事が存在として【許されていない】。ドキュメンタリーにおいて、作家が撮影対象を「制御」することを「演出」と呼ぶとすれば、その「制御能力の高さ」=「演出力の高さ」となってしまう。撮影現場(それは、その場に存在している光や音、被写体となっている人間、そしてスタッフ含め)を制御することを志向する作家は、いずれその制御力拡大の欲望から逃れられなくなり、結果としてフィクション作家への道を進んでいくのではないだろうか(例えば、是枝裕和や河瀬直美という偉大な監督は、そういったタイプだと分類出来るかもしれない。一応エクスキューズしておくが、私は両監督を尊敬している)。

ドキュメンタリー作家は恐らくは、「現実」を「制御」する権限を持たない。自己が現実に内包されており、虚構化も許されない実世界において、ドキュメンタリー作家は、「真実などは存在しないこと」「現実は既にフィクションを内包していること」を常に敏感に意識しながら、対象を批評的によく「見ること」しか出来ない。どれだけ「見ること」が出来るか。それがドキュメンタリー作家に問われる第一の資質だ。土本典昭や小川紳介といった偉大なドキュメンタリー作家たちの作品を見なおしてみても、現場において監督含むスタッフ達が、如何に「見ること」に長けていたかを実感する。
これを、「誰にでも分かる」テーゼとしてクレバーに提唱し直し・実践しているのが想田和弘という作家なのかもしれない。参与観察(作家自身がその撮影現場にいるという事実を前提とし、それによって変容した現実そのものを観察する)とは、そもそもドキュメンタリーを撮る者にとっては、いわば「前提」と言えるような態度である。しかしながら、そのようなドキュメンタリーにおける本質的な問題は、普段ドキュメンタリーについて考察する機会のなかった人達(これはつまりは、9割以上を占める観客と言えるが)にとってはある種の目新しさがある。それを自らの作品と、説得性の高い言葉によって、ある種「啓蒙」しているのが想田和弘という作家ではないだろうか。ドキュメンタリー映画という、産業としては弱小中の弱小である世界が、広く一般に誤解なく普及するためには、まさしく想田のような存在が必要不可欠だろう。ありがたい、と思いはすれ、んなことはみんな分かってやって来たのに何を今さら偉そうに、などという嫉妬混じりの発言はする気になれない。そういう事を言説化した上で、間口を開いていく努力をしてこなかった結果が、今のドキュメンタリー映画産業において「ドキュメンタリー映画じゃ食えないよ」というクリシェを安酒片手にニヒルな態度で下の世代に語ってきた者たちの、問われるべき責任ではなかったか。


冒頭の佐藤真の言葉に戻ろう。
たった一年間ドキュメンタリー映画に関わった人間としては、この言葉において実感として理解出来る部分もあるが、不明な部分もある。

「…映像表現による批評行為」というものは、そのまま、その通りだと思う。
「“真実”などは存在しないこと」「現実は既にフィクション性を内包していること」
この二点については、ドキュメンタリーというもの以前に、リテラシーというレベルで常に認識せざるを得ない時代に育ったと自己分析しているため、深く理解している。
「たとえ無垢な現実の断片がフィルムに映し出されたところで、それを再構成することで映画は紛れもなくフィクションになる。」
これも、撮影し、編集する、という行為を何度か実践した後になっては、実感として理解出来る。

さて、問題は最後の一文である。
「ドキュメンタリーの批評性とは、そうやって再構成されたフィクションが、当の現実をどの様に批判的に映し出すかによって係わっていると私は考える。」
佐藤真は、ここで「現実を『批判的に映し出す』」と書いた。

現時点で自分に分からないのはこの一点に尽きる。現実を批評的に、冷徹に見続ける眼差しが、ドキュメンタリー映画を作品として成立されられるかどうかの芯を左右するのは分かるが、2011年という、この時代において、「批判的」に映し出すことの意義とは何だろう。何故、「批判的」という言葉を用いたのだろう。

私は、現実を「批評的」に見る事には一点の曇もなく同意する。
ドキュメンタリー映画が担う役割があるとすれば、まさしくそこに尽きるのではないかとすら思う。

しかし、何故、「批判的」という言葉がこの文章の冒頭と締めくくりに2度使われたのか。
というのは、私はドキュメンタリー映画というものが、現実を「肯定的に」映し出すことにも大いに意義を見出すからだ。むしろ、3.11以降の日本において何かを撮るという行為においては、「批判的」な眼差しよりも「肯定的」な眼差しの方が重要かもしれないとすら思う。

どれだけ自分がやれるかは、未だに全く分からないが、「ドキュメンタリー映画」というものが、何かそこにある現実の一部を「肯定的」に映し出すことによって、同時にそこにある世界に対して強烈な「批評性」を持つことが可能だろうと考える。

批判的に物事を捉えるよりも、肯定的に捉えるという姿勢が、今、失われつつあるもの、そして寄り添っていくべきものであるような気がするのだ。



-------------------------------------------------------------------------------------------



今、佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」を読み直している。
思想の本ではあるものの、非常に読みやすいので、色んな人にオススメ。その中のニーチェの引用を。
※ちなみに東浩紀および福嶋亮大は、この本および佐々木中を痛烈に批判した。

「おお、諸君世界政策の大都会にすむ哀れな奴よ。諸君若くして才能に恵まれ、名誉心に苦しめられている人々よ。諸君は、あらゆる出来事に−しょっちゅう何かしらが起こるのだから−一言するのを義務と心得ている!諸君は、こういう風にして埃をたてて騒げば、歴史の車になると信じている!諸君は、いつも耳を澄まし、いつも一言投げ入れることができる機会をねらっているから、真の生産力をすっかり失くす!よしんば諸君がどんなに大事業を切望しようとも、懐妊の深い寡黙は、決して諸君のもとに来はしない!時代の出来事が、諸君を籾殻のように追っていく。諸君は出来事を追っているつもりなのに。」






_

No comments:

Post a Comment