Sep 22, 2011

思考の断片的なもの(考えるために書く行為の記録)

・システム工学分野におけるシステムの定義
「機能が異なる複数の要素が密接に関係し合うことで、全体として多くの機能を発揮する集合体」

・ギー・ドゥボール
「映画の機能は、劇作品であれドキュメンタリーであれ、孤立した偽の一貫性を、そこに存在しないコミュニケーションや活動に代わるものとして差し出すことである」



時代性を全く無視した『私の表現』がメインのドキュメンタリーには、今は興味が沸かない。セルフドキュメンタリーに興味がない訳ではない。その自己の存在自体を時代性の中で自身が批評的に捉えられているならば。ただ、時代性だけで作品成立を担保している映画もそれほど面白いと思えない。相反するように思えるが、何故今撮らなければいけないのかという問いと共に、表現としていつどこで観られても耐えられる普遍性を獲得しているかという問いがあり、その2つの問いに答えられる作り方をしたい。時代性と普遍性が両立するものをどうにか作るには…短期間で消費されるものをドキュメンタリー映画として作っても仕方がない。将来的に「この時代」が映っているという事で普遍性を獲得する。というのではなく、現時点で何かしらの普遍性を獲得しているもの。しかも現在に正面から向き合いきちんと批評的に捉えているものを作りたい。まず、これが一つの、今の自分の正直な前提としてある。


自分が好きなドキュメンタリーを考える。そこには人間が映っていると共に、何かしら構造と呼ばれるようなものも映っている。それはシステムと言い換えてもほぼ問題ない。人間に入り込む中で構造が見えてくるもの、構造を正確に捉えていくなかで人間が浮かびあがるもの、その両者を並行的にバランスを取って編集して成功しているもの。基本的にはこの3パターンが王道としてあると思う。時代性とは恐らくまず何かしらの構造の中に隠されているものであり、普遍性は恐らく人間の中に潜んでいる。例外は多々あるだろうが、とりあえずはこの仮定の下で考えを進めたい。


ここまでまとめ。成立条件:時代性・普遍性の両立。時代性=構造。普遍性=人間。

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※この観点でMAKING of MANGAを自己批評してみる※
MAKING of MANGAで映っているものはマンガ執筆のディテール(=物質の変化)。その作品を執筆する新人漫画家の現在置かれた状況。その2つだった。新人として何かを作っている人間としてのある種の普遍性は、かろうじて映っていると言ったとしても、明らかに構造の部分が足りていない。そのため、時代性が捨てられている。また、人間の「変化」も捉えられていない。「マンガ原稿」というものが出来るまでは、単純に「頑張ってずっと撮影する」という方法によって撮れているが、「マンガ単行本」という商品が出来るまでは正確には映せていない。そのため、「制作」の構造が映画に取り込まれていない。構造を映すためには一人の人間を撮るだけでは不可能だ。構造(=システム)の定義の通り、そこには「異なる複数の要素」が存在しなければならない。そして、その要素同士が「密接に関係しあって」いなければならない。つまり、構造をMAKING of MANGAに取り込むためには、漫画家と担当編集者の関わりと、マンガ雑誌そのもののデザインをしている編集長の言葉がなければいけないという事だ。そこが圧倒的に弱いために、構造が映っていない。ここの構造がもっと明確に提示されていれば、その構造の中で動く要素としての漫画家その人の心情の吐露のシーンがより生きてくるはずなのだ。その点が「物足りない」という事になる。
もう一つ、人間の変化が捉えられていない部分に関して。これは、スタッフ全員がその変化を発見する目を現場で持ち得ていなかったこと(そこに意識が向いていなかったこと)が原因だろう。

MAKING of MANGAを作り始める時に、この構造をどう入れ込むかという部分について、十分に明確な考えを持てていなかった構成者(=おれ)に問題があったと言える。これは批判される一つの要因となる。30分という尺の中で、どう構造を落としこむのか、がもう少し明確になっていれば、もしかしたら両立出来たかもしれないのだ。修了制作として提示された「出来るまで課題」として作品を作ったという態度そのものを、今、もう一度反省する必要がある。結果として、「出来るまで作品として」ある一定の完成度を持ったが、「ドキュメンタリー作品として」は、やはり時代性というものが圧倒的に欠けているのだ。作り手側の「これは出来るまで課題として制作された作品で…」というエクスキューズは、観客には興味がない。
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人間が映っているかどうかは、恐らく現場にかかっている。現場のキャメラマンの目であり、監督やスタッフの発見。その中で対象との関係性を築けているか。その次に、ある種冷めた目で抑制的に対象を見ることが出来るかどうかだと思う。対象の言っている事に共感する部分と批判的な部分とを健全に持ちつつも、どこか「この人は、こういう事を、こういう表情で、こういう口調で、言っている」というだけの目を常に持ち続けられるかどうかにかかっている。気をつけるべきは、この人の言っている事が全て正しいとも、全て間違っているとも思わない態度を持ち続けることだ。全く正しい人も、全く間違っている人も、きっといないのだ。自分と同じ考えの人と、異なる考えの人がいるだけ。それを忘れたら恐らく人間を見たと言うことは出来ないはずだ。そこにあるのは、ただ、「この立場の人間が、こういう事を言っている」という事実性だけだ。
人間は知識では映せないのだろうと思う。人間をきちんと見るためには、誠実な態度、相手の人生に対する愛が必要だ。逆に言えば、それさえきちんと持ち続けていれば、自分の作品の表現として人間を「使う」ような撮り方にはならず、冷静に人間を見つめる眼差しを持てるはずだ。

構造を映せるかどうか。これは人間を見る目とは少し違った、理性や知性の領域の問題だろうと思う。
時代性を表象しているものが構造だとすれば、構造を作り手として批評的に見るためには知識が必要だ。他のあらゆる構造について知り、自分が対象に選択した構造そのものと比較した上で考察出来る知性が必要になってくる。そのためには、歴史を学ばなければならないだろう。特にドキュメンタリー映画は長い視点で構造を捉えることが出来る貴重な表現のはずだから、あらゆる目の前の問題を、分母の大きい時間軸の中で、また体積の大きい空間の中で、その都度捉え直していく知性が必要になるのだと思う。


やるべき事は、まだまだたくさんあるのだ。
きっと、こういう事は色んな本にもっと明確に考察されているのだろうと思うが、今は、自分だけで一から考え直したい気分。本で読んでなるほどーと思った事は、なんか、結構忘れちゃう。でも自分で一から考えて、その後同じような事を書いてる本を読むと、一生忘れない。




追記:
最も単純に書くとこういうイメージ。このイメージでとりあえず考えてるのがこの文章。
点が人間。人間はそのものは時間関数。そのものが変化する。その個人の変化によって周りとの関係が変化する。それによって赤線が描く形が変わる。赤線の形が時代。外側の丸が「世界」。世界は人間にも時代にも関係ない不変の何かとして存在している。本当は人間という時代(=赤線の形=構造)を構成する一つの要素自体の形もバラバラで点だけではないし、要素間を結びつけているのは方向性を持ったベクトルだし、そのベクトルには関係性の強さという意味で太さがある。きっと、インターネット以前/以後で時代を分けられると考えると、以前の段階では小さいネットワーククラスタが無数にある世界だったのが、以後ではクラスタ間がほぼ無関係に繋がったのだと思う。線が一気に増えたため、形=時代が把握しづらくなっている。でもその線は以前に描かれていた線より恐らく細いもので、これが今後太くなっていくのか、切れたり繋がったりして細いままなのかが、多分2010年代に明らかになっていくことだと思う。







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3 comments:

  1. 個人が世界をどう捉えているかに関わらず、常に世界は存在し続けている、という視点で考えると、時代は常に個人の中に存在し続けてきた、とも言える。
    ブログの文脈の通り、個人と構造は干渉しあっているということだけれど、1つ視点を付け加えるなら、「人」「間」ではないところの普遍性をどう扱うかということもあるよね。

    マンガ製作の構造が人間を映し出すというくだりを読んで、企画の初期に、原稿をラルジャンの貨幣にしたいって言ってた意味がこれ読んでよくわかったよ。

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  2. 「世界」と「時代」と「個人」との関係性をどう設定して考えてるのかがよく分からないから、最初の「…とも言える。」がよく分からないな。

    「世界」は不変に近いもので、「時代」というのは「人間」という時間関数の要素間の関係性が作り出している「形」によって変わる時間関数の集合ってイメージなんだよ。一番要素数の少ない「時代」を考えると、2つの要素が作っている時代というのもあって、例えば俺とコマッチーの関係性の「形」が時代性なんだよ。それは1年前位に出会った時点で生まれたもので、その要素間の関係性の「形」がどうなっているかによって表象されるものが時代というか。その形の変化の軌跡が「歴史」で。だから、時代性というのはきっと形・構造の中にあるんだと思うんだよね。そんなイメージ。だから「時代は常に個人の中にある」てのが上手くイメージ出来ない。その辺の、コマッチーの中で説明不要とされている「前提」を、まず説明してもらう必要があるな。

    「人」「間」ではないところの普遍性って、例えばどういうイメージ?これも実は何のことなのか良く分からない。


    ラルジャンとか恐ろしい事をよく言ってたよな…あの時は「原稿=漫画家の思考が物質化されたもの」が物理的に動いていく過程を丁寧に追って撮影出来れば、時代性の中に規定されている漫画制作の構造を映画に取り込みながら、より人間そのものが見えてくるかもと思ってた。もっと「思考の伝播」をテーマとして考えてたんだけど、見事に崩れ去っていったね。。

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  3. ちゃんと伝わったよ!
    時代は一対不特定多数ではなく、最小単位が一対一の人間関係だっていうのは、確かにそうなのかもね。

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