Nov 24, 2009

thinking about life again and again



本日中に1ヶ月半ぶりに静岡に帰る予定。
会社に行くのはいつになるのかはまだ未定。
とりあえずは病院に行って医者と相談し、その結果を踏まえて上司と相談して、どうするのかを決めていく。

うつは良くなっているのか自分でも判断できない。
ただ、やはり睡眠障害は治っていないし、何もしたくなく誰とも会いたくない気分になるときは多々あり。
電話にもメールにもほとんど対応できない。申し訳ない。とにかく他者に向けられるエネルギーが不足している。

25歳でうつになって、改めて自分は色々な人たちに支えられてなんとか生きていることを実感する。
家族はもちろんのこと、さとにも、友人たちにも。
人間は独りでは生きていけない、ということを実感として知る。実感として知ることは、病気にならなければなかったのかもしれない。実感として知るというのは血肉として理解するということで、頭で理解するのとは雲泥の差が、その質においてある。
支えてくれる家族も恋人も友人もいなかったら、俺はもう自殺していると思う。
自分が死んだら悲しむ人がいる。と思えるというのは素晴らしく恵まれている。それだけに支えられて生きている。

生きる意味など無いというのは、もう確信に近い結論になっており、じゃあ何故生きるのかと問われれば、死ぬのは申し訳ないと、僭越ながら思えるからだ。

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歳を取るにつれ、人生に真面目になり過ぎたのかもしれないと思う。
いつからかはわからないが、人生に真面目になってきた頃から、生きることが大変になったと感じている。
それは責任を負うということであり、手前のケツは手前で拭くという覚悟であり、社会的人間として生きる断固たる決意だ。

10代後半から20、21、22くらいまでだろうか。俺はどこか人生をナメきっているところがあって、それだからこそ、騙し騙し楽しく青春時代を謳歌していたのかもしれない。不健全なニヒリズムに陶酔していたともいえる。

じゃあもう一度人生をナメきってみようか。ニヒリズムに回帰した方が、あるいは生きやすくなるということがあるのだろうか。全ては(愛も含めて)無価値だと。

真っ当な大人になることをいい歳して未だに拒んでいるのだろうか。よくわからない。
毎日会社に行って、やりたくもないし興味もない仕事をこなして金を稼いで、自分を、そして家族を養っていくという事が、真っ当な人生なのか。これもよくわからない。

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まあはっきりしたことはあって、俺は良くも悪くも、「フツー」に生きられない性質の人間だということ。学生時代は薄々それに感づいていながらも、まあ、何とか社会性を持って生きていけるかなあとも淡い期待を抱いてシコシコ勉学に励んでいたが。人生を考え続けた結果、まあ「フツー」からはどんどん離れてしまっていたのだろう。

世の中の大半の人は、ストレスを感じながらも毎日仕事をしていく訳で、その中で仕事に対するやりがいや憤りを持ちながら生きている。

客観的に考えて、俺がたまたま超運悪く、異常なストレスにさらされる職場に行って精神をやられてしまったとは考えにくく、やはり原因は俺の内面にあって、外的環境はその内面の暗さみたいなものを引き出したトリガーに過ぎないということだろう。
結局は原因は俺の社会認知のあり方にある。厭世的な考え方にあるというのが、きっと正しい。
厭世的な考えはすでに中学生頃に確立してしまっていたから、この考えを根本的に変えるというのは、恐らく宗教的な何かやスピリチュアルの類のものにしかないだろう。

そういうものを「信仰」する力のない俺は、やはりニヒリズムに陶酔しながら、けっくだらねえ世の中だぜなどと嘯いていくしかないのだろうか。

それはそれで、何とも悲しい人生だなと思う。ま、でも悲しくて美しいのが世界なら、それはそれでいいのかもしれない。

俺の人生、どうなんのかなんてわかんない。
会社に残るかもしんないし、辞めるかもしれない。
東京でプラプラ生きるかもしんないし、北の大地に出戻りするかもしんないし。
ま、いずれにしろ、いつか死ぬことだけは確かだ。なんてわかり易いシステムだろう。
0から始まって、0で終わるまで、バカみたいにもがくのが人生だ。

from "DOWN BY LAW"












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