Dec 22, 2008

私が科学工学に9年間接し,それに嫌気がさした理由



科学や工学は理詰めの世界である.
正しく流れている論理は正しいし,どこかで破綻している論理は間違っている.

客観性・再現性という特質を持つ見えざる神を信仰する信者が,科学者であり工学者の大半である.

誰が,どこでやっても,正しい手順で,正しいデータを取り,正しく解釈すれば,正しい結果が得られる.というのがこの宗教の最大の強みだ.

私が最も惹かれたのは,科学や工学の持つ公平性だ.
誰でもルールさえ守れば,評価されるこの宗教の公平性.
この宗教の信者たちは盲目にこの公平性を信じて,「論文」と呼ばれる一切の主観を排除した文章を書くために日々精進している.


一方で,私がこの宗教に嫌悪感を感じているのもこの部分だ.
「誰にとっても」正しいものは正しい.間違っているものは間違っていると言い切れる世界観の気持ち悪さ.

人間が持つ最も面白く理解不能な「主観」や「感情」を一切排除して成立してきたこの宗教の教理に嫌悪を感じてしまう.
一切の多様な解釈を不可能にしてしまう数学というガチガチの論理体系.この強力なツールの前に,「私はこう感じる」というような,曖昧で甘美な人間の解釈は破棄される.



文学・音楽・絵画・映画.
これら芸術作品には,個々人にしか解釈できない豊潤で多様な表現の海が広がっている.

本当に知的な人間の創造活動はどちらなのか.






科学工学という理詰めの宗教よりも,曖昧で茫洋とした芸術活動にこそ,人間しか持ち得ない「知」の可能性が広がっていると感じている.

本当に頭のいいやつは,科学という人間の可能性を捨てるだけ捨てた宗教にはのめり込まなかったんじゃないだろうか.

ノーベル賞がどんなにすごいものかなんて,ただの工学部学生には想像もつかないけど,小林・益川理論よりも,100年前の哲学者の言葉の方が,ずっと知的に感じている.


科学や工学に特別な愛着を感じながらも,ここでは敢えて言い切ってしまおう.

科学や工学は,凡庸でつまらないと.











2 comments:

  1. 論文だって,Discussionて言われる項目が多くのページを割かれているくらいだ.ここに書かれているのは得られたデータを解析する上で客観的事実と自分の主観(が大半)を混ぜたもの.主観を排除しようと努力しているのは事実かもしれないけど論文は主観を排除したものでは決してない.主観の塊だと言っても過言じゃない.

    だから論文は情報ソースとしてだけでなく,これを見てどう思いますか,という問題提起の場だ.

    んで君の言う通り,「主観」とは「人間が持つ最も面白く理解不能」であるから世の中には一生“科学者”であるひとが沢山いるわけでしょ.

    >一切の多様な解釈を不可能にしてしまう数学というガチガチの論理体系.この強力なツールの前に,「私はこう感じる」というような,曖昧で甘美な人間の解釈は破棄される.

    数学はツール.その通りだ.
    美術の世界で絵の具の色に主観が入りようがないのと一緒.
    音楽の世界で音階そのものに主観が入りようがないのと一緒.
    ツールと割り切ってしまった時点で主観の入り込む余地なんか排除しているじゃない.“ツール”である数学を“主観の排除された”科学として持ち出す時点で少し誤解があるよ.

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  2. SIMAさんのブログにも大きな誤解があったけど,“科学には答えがあるじゃない”っていう認識はちょっと違うよ.主観を排除して答えだけかかれたものは学生の書く学生実験レポートと同レベルだよ.

    不愉快に思ったなら,しかも長くなって,スマン.

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