Nov 3, 2008

「社会的役割」についての「優しい」考察



1.はじめに

 私の生活において,周りにいる友達は,主に学部3年生から修士2年生の大学生と,高専を卒業して就職した4年目の社会人である.前者については,自分が「何者」として社会の中での「役割」を担っていくのかという決断を下す時期の学生であり,後者については自分が社会の中で「何者」としての「役割」を担うのかが確定しつつあり,その現状のままで自己を確立していくか,現状から脱却して(レベルは様々だが,転職,異動など)新たな「役割」を探し始めるような時期の社会人であると思う.
 みんなそれぞれ,色々悩みつつ生活している.そんな友達とのやり取りの中生活をしていて,「社会的役割」って何かを,今,きちんと再考する必要があると思った.思ったから,書こう.読者の皆さんにとって,読んで「優しい気持ちになれる考察」になれば幸いである.

2.関数として考える「社会的役割」

 社会における個人の「役割」とはなんだろうか.これを“ちゃんと”考えるには「社会」の定義をしなければならないが,とりあえずは曖昧なまま,まずは,機能・関数として「役割」を考えてみよう.「社会」における「自分関数」の入出力を考えればわかりやすい

私の今の肩書きは「社会人学生」というもので,社会からの入力はと考えると,「会社の金(給与・居住費・学費)」で,出力は「学習成果」である.こう考えると出力の「学習成果」ってなんだろう?との疑問が生まれる.もし出力先が「会社」であれば,私は現時点で一切の出力がない関数である.「学習成果」の出力先は私の脳であるからだ.これじゃー今の私には社会における役割がない・・・あぁ全ては無価値,ニヒリズム,空観,堕落,自殺・・・となるのはあまりに短絡的なのでやめておこう.私の経験上,「ニヒリズムは大体1ヶ月で飽きる」.
 実は上記のように,「金」ベースで考える社会的役割ってのは,一見正しいように見えて実はウソである.とかく株価がどうだとか世界恐慌が来るだとか世知辛い世の中にいると,「金」ベースで社会的役割を捉えがちであるが,これは非常にバカな考えだと宣言しよう.「金」は社会を構成する一要素にすぎないと認めることから「優しい考察」が始まるのである

3.社会とは何か

 社会とは何かなんて,考えても難しすぎてよくわからない.そこで,とりあえずこれを,「自分関数と関係するもの全て」と捉えてみよう.社会を構成する要素には,国家,会社,学校,家族,友人,恋人,上司,同僚,部下,見たテレビ,映画,読んだ本,聴いた音楽,食べたごはん,挨拶した掃除のおばちゃん,コンビニ店員など,とにかく「自分関数と関係するもの全て」を含むことにする.

社会をここまで広げて考えると,自分関数の入出力がもう少しわかりやすくなってくる.
自分関数の入力とはつまり,「自分に影響を与えるもの全て」であり,出力は「自分が影響を与えるもの全て」である

4.「金」ベースで考える「社会的役割」の危険性

 だいぶ考えやすくなってきた「社会的役割」.ここで,「金」ベースで考える「社会的役割」の危険性について述べておきたい.「社会」の一要素に過ぎない「金」だけを入出力として自分関数を考えるとどうなるか,ということである.現代はほとんどの国家が資本主義社会であるため,「自分関数」の効率として「金」を重視して考える風潮があるが,これは非常に危険かつバカな考えだ.

 まず「会社員」を金ベースで考えよう.会社員って何?を中学生に説明するなら,会社の利益に貢献するための労働力を提供し,その対価として給与を得て生活する人達となる.これを自分関数として捉えると,入力が給与,出力が会社の利益に対する貢献である.この会社員関数の「効率(=出力/入力)」が会社側から見た会社員価値として定義できる.

つまりは,会社側から見ると「できるだけ少ない給与で会社へできるだけ貢献する」が会社員関数の目的である.デキる新人が歓迎されたり,製造業企業がBRICsへ工場を作るのは会社員関数の効率が高いからであり,給料ドロボーが疎外されるのは,関数としての効率が比較的低いからである.非常に単純化しているが,これが金ベースで考えた会社員関数の本質といえる.会社側(経営側)から見れば,会社員価値は高ければ高いほどありがたく,会社員側から見れば,会社員価値が高ければ高いほど不満が生じる.

 次に「学生」を金ベースで考えてみよう.学生関数の入力は「親からの金&奨学金」であり,その出力は実は無しとなる(バイトやTAは単純化のため除外).金ベースで考えるとこうなる.よって「学生価値=0」である.学生関数は実は特殊な関数であり,「現在価値」は0であるが,「将来的価値」のための投資という観点でのみ価値を持つ.「将来的価値」というボンヤリして定かでない出力が「学生価値がある」ことの根拠である.だいぶ危なくなってきた.金ベースで考えた学生関数の現在価値は0となってしまう.

 もっと考えよう.次は「ホームレス」について考える.金ベースだとホームレス関数は実は入力も出力も存在しない.ここには学生のような投資の観点も存在しない.となると,ホームレスは無価値となってしまうのである.これは本当だろうか?本当ならホームレスなんて殺したほうが良いという結論になってしまうだろう.

 ここまで考えると,金ベースで考えた自分関数の価値というのは非常にバカバカしいし危険なものであることがわかる.しかしながら,現代に生活人として暮らしていると,「金」という「社会」の一要素でしかないもので,「社会的役割」の大部分が規定されるというバカげたことが実は当たり前のように感じてしまわないだろうか.人の価値を企業名や,肩書きで推測するということが,結構当たり前になされるが,この推測の根本には金ベースの思想が潜んでいる.いい大学に入っていい会社に就職するとか,外車に乗りたいとか,プラダを持ちたいという心もその根本には金ベースで考えた社会的役割が存在する.

 バカげた金ベース思想から逃れるには,3.で既に述べた「社会」を強く再認識する必要がある.

5.本来の「社会的役割」とは何か

 「社会」を「自分関数と関係するもの全て」として考えるなら,「社会」における「自分関数」の入出力,つまり「社会的役割」とは何かが見えてくる.自分関数への入力には,家族との会話,友人との会話,恋人とのデート,金,業務経験から学んだこと,講義で勉強したこと,本で読んだこと,飲み会で感じたこと,ニュースを見て感じたことなどなど,「自分に影響を与えるもの全て」が考えられる.出力を考えると,「自分の言動や行為(自分が影響を与えるもの全て)」となる.
 出力には正と負の二種類があり,社会から望まれる出力は「正」の出力であり,犯罪行為は社会に対する「負」の出力となる.犯罪行為にはならなくとも,誰かを不快にさせる言動や行為も「負」だといえるだろう.もちろんたばこの煙は負の出力である.

 このように,本来の「社会的役割」とは,「社会」の定義を広げてみれば(金への偏重主義から脱却すれば),もともと「金」を入力&出力として持たなくとも,立派な出力を持つことが可能な自分関数である.人に思いやりを持って接して誰かが喜べば,これは立派な正の出力を持った自分関数である.死なないで存在しているだけで友達や親が喜べば,これも立派な正の出力をもった自分関数である.逆に言えばあらゆる入力を全て「利己的」な目的に向かって出力してしまうなら,これは「社会」に対しては出力0であり自分関数の価値は低いと言える.



 めっちゃ金を稼いで,その全てを自分の家,自分の車,自分が食う旨いもんに費やす人がいるとして,この人は入力の一要素としての金が非常にでかいのに関わらず,出力を自分にしか費やしていないため実は関数として,つまり「社会的役割」としての価値は低いんじゃなかろうか(まあ税金はすごいだろうけど).
 ホームレスの人は入力として微々たる量しか得ていないが,ホームレス仲間に酒をおごった時点で,前者の金持ちより「社会的役割」としての価値が高いかもしれないのだ.



 この考え方が,金ばっか考えて見落としがちな本当の「社会的役割」なのではないだろうか.否,本来の「社会的役割」はこれであろう.経済的人間として生きる現代人(もちろん私自身を含め)は,それを忘れがちなことが問題なのだ.


6.おわりに

 以上,かなり5.は反論しやすいウソくさい内容となっているかと思うが,言いたかったことは,「人のために何ができるのか」を考えなきゃ自分関数の価値は上げられないということ,入力が大きいほど出力も大きくしなきゃなということ,「金ベース」で社会的役割を判断しがちな世の中がやっぱ嫌だし,実はそれってバカらしいよね,ということである.金ってのは人のため,社会のために使って初めて「社会的役割」を持つんではなかったかと自戒の意も込めて考察した.

 基本的にこの「社会的役割」の考察は独身向けで,既婚者で特に子供が出来るともっと複雑になってくると思うが,それは親にならなきゃわからないだろうということで,今回は省略する.











2 comments:

  1. 読ませていただきましたよ!全文。読んで思ったのは、なんか拓也はホームレスが気になっている事。そんな気にしなくて良いんじゃないかな?なんか拓也からホームレスって言葉が出るとちょっと落ちる。あの人達はあの人達で好きでやってんだろうから。

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  2. ホームレスの人達はリスペクトしてるつもりだよ.

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