Jul 19, 2010

ヴィターリー・カネフスキー3部作を観た@早稲田松竹



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※ヴィターリー・カネフスキー※
1935年生まれ。本名はヴィターリー・エフゲニエヴィッチ・カネフスキー。25歳でモスクワの全ロシア映画大学(VGIK)に入学するが、在学中に無実の罪で投獄され、8年間の獄中生活を送る。釈放後に同校を卒業してレンフィルム撮影所に入り、短編映画の撮影スタッフや助監督として働く。

53歳の時、アレクセイ・ゲルマンに見出され、監督を務めた長編2作目の『動くな、死ね、甦れ!』で第43回カンヌ国際映画祭カメラ・ドールを受賞し、その名を世界的に知られるようになる。また、その続編となる『ひとりで生きる』で第45回の同映画祭審査員賞を受賞。そして、1993年これら二作品の主演2人の再会をカメラに収めた『ぼくら、20世紀の子供たち』を制作し、世界中の映画ファンから熱狂的な支持を受けるも、後に1本のドキュメンタリーを遺し、映画界から姿を消してしまう。
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「『動くな、死ね、甦れ!』は、かけねなしの傑作であり、これを見逃すことは生涯の損失につながるだろう 」
と言ったのは蓮實重彦であった訳で、
『ドキュメントとフィクション』の境界、それに対するカネフスキーの眼差しとアプローチは、観るものに確かな刺激と感動をもたらす。 」
と言ったのは是枝裕和だった訳です。
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【雑感】
と言うわけで、先週の金曜日、老舗の名画座・早稲田松竹でやっていた、ヴィターリー・カネフスキー3本立てを観た。3本観て1300円なのが素晴らしい。

1. 動くな、死ね、甦れ!(1989、ソビエト、105分)
2. ひとりで生きる(1991、フランス・ロシア、97分)
3. ぼくら、20世紀の子供たち(1993、フランス・ロシア、84分)

この3本である。3部作だ。
「動くな、死ね、甦れ!」の続編が「ひとりで生きる」であり、この両作品はソ連を舞台としたフィクションとして製作されており、3本目の「ぼくら、20世紀の子供たち」は、ソ連崩壊後のロシアを舞台としたドキュメンタリーとして撮られている。

3本立て上映最終日という事もあって、場内はかなりのお客さん。
一本目の「動くな、死ね、甦れ!」が10:20分からだったのだが、平日の午前中なのにほぼ満席。
二本目の「ひとりで生きる」12:15分でキャパ153席は満席になり、三本目の「ぼくら、20世紀の子供たち」14:05に至って立ち見が出るほどの客入りとなった。「ぼくら…」を観終えて外に出る際、既に次の「動くな…」から観るためにお客さん達が押し寄せていた。

やっぱ東京ってすげーな。と実感。
地方だと、「カネフスキー」の特集上映にこれ程の集客は見込めないだろう。というか、名画座自体が無いとこが多いのだ。それが悲しい現実なのだ。
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【映画を観るという事】
まず、この3部作を観終わって外に出た際、久しぶりに多幸感を味わった。
この3部作は決して「明るく楽しい」内容では無く、ズッシーンと心の奥の普段あまり人には見せないような部分に隠している精神を揺さぶられる類のものなのだが、濃密な5時間強の時間を全て「映画」を受容する事に費やすその経験、その豊かな時間を過ごした経験から得られる多幸感があったのだ。

映画館を出た後に、何か映画館に入る前に観ていた景色とは違った景色になる経験。「世界」の変容を体験させてくれる文化体験をした後に得られる多幸感だ。こういう体験はそうそう数多くあるものでは無い。

初めてライブハウスに足を運んだ時、初めてクラブに行った時、その会場から一歩外へ出た時に感じるものであるし、初の海外生活だったオーストラリアから帰国した際に成田空港で感じる類の体験である。

こんな体験をさせてくれたという事実が、カネフスキーの映画は文句なしに素晴らしく、蓮實重彦が「生涯の損失」とまで書いた事が全く大袈裟なものではない事を証明したのだ。
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※注意!!※以下の文章には3部作の核心を記述する内容が含まれます

「動くな、死ね、甦れ!」ではワレルカという12歳の少年をパーヴェル・ナザーロフが、ガーリヤという少女をディナーラ・ドルカーロワが演じている。共産主義国家であるソ連の悲惨で不穏な生活の実態。荒んだ炭鉱町の大人達に対する反発心を抱えながら、ワレルカとガーリヤがお互いの存在を承認し合い、そして歌を共に歌いながら生きる姿が描かれている。この少年少女の生命力には、アッと驚かされる。

映画の冒頭及びラストシーンにおいて、フィクションとして撮られているこの映画が、ドキュメンタリーのように演出される事に驚かされる。カネフスキー自身の声が入るのだ。
「カメラはあの女を追え!他の者はかまうな!」
特に、ラストシーン。ある女が発狂するのだが、それがあたかもその場で起こった実際の事件かのように映し出され、この作品は幕を閉じる。
カネフスキーが「フィクション/ドキュメンタリー」の境界を超えてみせるこのシーンには、驚きと同時に感動せざるを得なかった。
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続く「ひとりで生きる」でも主人公はワレルカだ。家で育ててきた豚が実際にナイフで殺される(共産主義体制が完全に行き詰まり、極貧の生活の中、やむにやまれず母親が殺す事を決断したのだろう)ショッキングなシーン(当然、CGなどではなく、実際に男達の手によって豚がナイフで引き裂かれ、なんとも残酷な断末魔を叫びながら痙攣し殺される。今じゃ絶対無理な演出)、それに対し激しい怒りと諦念を示すワレルカ。そのワレルカの心情を唯一理解してくれるワーリャ(前作ガーリヤの妹役、役者は同じディナーラ・ドルカーロワ)の描写。この余りにも重いと思われたシーンが、突然前作で発狂した女がバカみたいな格好をしている所をこの2人が発見し、大爆笑する描写によって示されるのだ(ちなみに、実年齢もほぼ役年齢と同じ少年に対し、殺される豚の顔を凝視させるカネフスキーは、完全に悪人であると言ってよい)。

この感覚。この感覚こそがカネフスキー自身が少年時代に持っており、恐らくは監督時にも忘れていない感覚なのだ。この感覚は、悲惨で救いようもない現実が「歌」によって救われるような描写にも共通だ。

ワレルカは前作より3歳成長し、15歳になっている。そして、前作からの「顔」の変化。これがまたスゴイ。映画の中でイッパシの悪人へと成長(?)していくワレルカと同調するように、役者であるナザロフ本人が悪どい顔になっているのだ。この役と本人のシンクロが、この作品が単なるフィクションの枠を超え、ドキュメンタリーの要素を多分に含んでいる理由の一つである。

他にも、凍てつく大地の美しい映像や、煙を使った映像の何ともいえない質感や、ソ連の捕虜として生活する日本人兵に対するワレルカの眼差しや、学校の校長(共産主義の管理者のキャラクターとして描かれているのだろう)の性的倒錯描写など、心にグッサグッサくるシーン目白押しである。個人的にはこの「ひとりで生きる」が最も好きだった。

そしてまたもラストシーン。衝撃的な映像マジックと恐ろしい表現のシーン(ここは実際に観て震えて頂きたい)の後、ワレルカがカメラ目線で語る台詞。この独白のシーンにおいて、彼は「ひとりで生きる」決心を述べる。15歳という年齢にして、世界を、そして社会を、その無慈悲やその欺瞞やその悲しみを見つめ、追われるように孤独を選択したワレルカが「俺なんか消えた方がいいのか!俺はもう一人だ!」と叫ぶ。
このシーンにおいて、またもカネフスキーは「フィクション/ドキュメンタリー」の境界を軽々と超えてみせるのだ。あたかもワレルカを演じるナザロフ本人の心情を、台詞と言う形で叫ばせていように観えるのである。
やはりカネフスキーは相当の悪人だ。というか、優れた映画監督は、大抵が悪人だ。
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「ぼくら、20世紀の子供たち」はドキュメンタリー映画である。
1993年当時、ソ連崩壊後まもなくのロシアに生きるストリートキッズ達の生活や精神を追ったドキュメンタリーである。あまりにもショッキングなストリートキッズ達の日常、そしてその荒みに荒みきった精神。そしてからっと乾いた明るい笑顔。この対比の感覚も、前2作に通じた感覚と同様のものだ。

そんな少年達を追う過程において、カネフスキーは、他の非行少年少女と同様に哀しみをたたえた顔の青年を、収容所において(青少年の刑務所のような場所)発見する。それは前2作における主演、カンヌで賞を取った映画の主演である「ナザロフ」本人の姿だ。ナザロフは前2作において演じたワレルカが悪に染まっていくのと同調するように、現実世界で立派な青年になり、恐らく立派な悪党になっているのだ。
カネフスキーがナザロフに鉄格子ごしに話しかけるシーンは、とんでもない強度を持ってる。このシーンで、もうこれら3部作がフィクションなのかドキュメンタリーなのか、そんなことはどうでも良くなってしまうのだ。

ナザロフは前2作のヒロイン役であるドルカーロワと再開する。ドルカーロワは綺麗な大人の女性になっており、どうやら役者として成功した生活を送っているようだ。その二人の会話。別々の人生を送る二人が交わす、幼馴染のような親しい距離感の会話。そして互いに思い出す「動くな、死ね、甦れ!」の線路のワンシーン。二人でそのシーンで歌った唄をまた一緒に歌うシーンには、必ずや涙腺が緩むだろう。これほどまでに美しいシーンはなかなか無い!

カネフスキーが教会での少年少女にインタビューするシーン。
「罪」について聞くのだが、最も印象に残ったのは、少女の言葉だった。

「最も重い罪は、絶望よ」

この少女の言葉は、カネフスキーに真っ直ぐに響いたのではないか。

カネフスキーは自らの育ってきた時代・環境と、1993年当時に生きる少年少女らとは、共産主義が無効化しようが、何も変わっていないと言っているのだろう。そして、その非行に走る少年少女達に対する余りに優しい理解の眼差しは、観るものの心を揺さぶる。しかし同時に非常に冷徹な社会に対する眼差し、そしてこのままでは絶対にいけない、「子供たち」をどうにかしなければ、という心情も切実に見えてくる。

カネフスキー自身が「人生への無条件の肯定/変わらない世界への絶望」の間で恐らく揺れに揺れまくっているのだ。

そのカネフスキー自身の実在としての葛藤が、ラストの少年一言に込められていると観た。
その一言が何かについては、ここに書くのはよしておこう。
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長いこと書いた。かなり多くの思い違いや、誤解や、誤読があるだろう。
でも、俺は批評家ではないので、いいのだ。一回ジッと観て、その記憶の中で感じた事をずらっと吐き出した。
ここまで読んでくれた奇特な読者が、「カネフスキー」体験を是非ともする事を願おう。
どうやら来月あたりにはこの3部作がDVDボックスとして発売されるようなのだ。しかも1万くらいで。
買っても観る価値はある。

だって、
「『動くな、死ね、甦れ!』は、かけねなしの傑作であり、これを見逃すことは生涯の損失につながるだろう 」
らしいからね。
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