Aug 20, 2006

休暇中ヒマなそんなあなたに



東洋思想
2006/08/19
レポート:「気」に関する多角的考察

 小学生の頃見たテレビ番組で、気孔師がその独特の動きにより両手から気を発し、弟子達をなぎ倒す衝撃的瞬間を目撃した。そのイメージが私の最初に捉えた「気」である。単純に「なんてかっこいいのだろう」と強く感じたのを今でも覚えている。しかし歳を重ね、工業高等専門学校という、技術者養成所という色を持つ学校に入学して以来、数学や物理学などのいわゆる自然科学の分野を基礎とする工学を学び続けていた私は、気孔師も気自体も胡散臭いものだと考えるようになった。科学的根拠のないその存在は、工学を学ぶ私にとっては認められるものではなくなっていた。そんなある日、インターネットであるサイトを見つけた私は衝撃を受ける。そこには気の存在が誰にでもすぐに感じることが出来るという趣旨の文章が書かれていた。半信半疑ながら私は、自らの手から気を出せたら面白いぞという興味本位から、そのサイトに書かれていた手順通りに気を出す練習をしてみた。驚くべきことにその練習を続けて数時間後、指の先から発している「気」の存在をはっきり感じることが出来るようになったのである。それは次第に大きくなり、私は磁石のように反発しあう両手を感じることが出来るまでに至った。その瞬間私は経験的に気の存在を確信したのである。
 以来、気とは何なのかということを考えることがしばしばあり、それに対する興味は現在でも続いている。このような状況の中で受けたのが本講義である。本レポートのテーマを決める際、一切の迷いなく「気」を選んだのは以上の経験とタイミングによるものである。
 本レポートを書くにあたり、当初は「東洋思想における気」とは何かを調べ、まとめようと考えていたが、その調査段階で私の気が変わった。陰陽五行論や易経といった、講義で知った内容について更に調べ、掘り下げてみても、余り独創的で面白そうなことは書けなさそうだと感じた。面白くないと思いながらも書くレポートに費やす時間は、有益とは思えない。そもそも私が本講義を受講した動機は、工業大学で理詰めの科目ばかりを学んでいては、脳が固くなってしまい、一意に決まる解釈ばかりを追い求め、自由な発想が出来なくなるのではないかという危惧から、触れたことのない未知の分野である東洋思想を受講すれば新しい発見や興味深い考察が出来るのではないかという期待であった。そこで、本レポートでは、気について調べている最中に脱線して考えるに至った、東洋思想における気と、他の科学法則や思想、宗教観などとの関係性についての様々な考察を書こうと思う。主題の「多角的考察」とはそのことである。ノーベル賞を受賞した偉大な科学者達の言葉には、しばしば「自由な発想」の重要性が述べられていることを、今、思い出したのである。
 講義で頂いたプリントの一枚に辞書のコピーがあった。その冒頭に非常に興味深い式がある。「物質=エネルギー」この式を見てまっさきに私が想像するのはアインシュタインが発表し、科学者が信じていた世界観を変えてしまった有名な相対性理論の式、「E=mc2」である。Eとはエネルギーのことであり、mは物体の質量、cは光の速さを意味している。この有名な式は、物体の質量はエネルギーに変換できることを意味しているが、これはまさに気のあり方と一致している。この驚くべき東洋思想の「気」と科学史上非常に重要な式との関係は非常に興味深い。科学者が20世紀まで誰も想像し得なかったアインシュタインの天才的発想を、気という思想はすでに知っていたのである。
「生成変化」の項目では、「聚散」についての説明がなされている。「気が凝集すると形ができて生命が賦与されるが、時間の経過とともにその物体ないし生命体の凝集力が弛緩すると、その物は元の宇宙空間に拡散してゆく」とある。この記述は熱力学という物理の一分野がその理論体系の基礎としている「エントロピー増大則」と類似している。詳細な説明は避けるが、この法則は自然状態では物質は時間とともに崩壊していくことを意味している。それは「気」という言葉を科学語に訳した「エントロピー」が拡散する結果なのである。
このように、対照的に捉えられがちな「東洋思想」と「西洋科学」との一致は、私にとって非常に興味深い発見であった。

 「気の展開」の項目で、気の自然哲学による宇宙論について次のような文がある。「まず気のカオスが現れ、次に清陽なる気と重濁なる気が上下に分離して天地が形成された」。これを読んで、キリスト教の母親を持ち中学生頃まで聖書を学んでいた私はすぐに創世記の天地創造の下りを思い出した。「初めに神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして光があった。神は光を見て善しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と名づけ、闇を夜とされた。夕べがあり、朝があった。第一日目のことである」(創世記1章)。
 「光と闇」は「陽と陰」であるし「気」は聖書語で「神の霊」といえる。初めに混沌(カオス)があるのも一致している。このような東洋思想的宇宙論とキリスト教的世界観の一致を見ると、ユングの「元型」という概念についても想起される。彼は、精神分裂病の患者の話す内容や一般人の夢を調べていくうちに、ある一定の共通するパターンがあることを発見し、更にそのパターンは、神話や昔話にも共通するものだという事を知った。そうしてユングは人類が普遍的に共有する普遍的無意識(集合無意識)の存在を仮定し、その中にある心像を「元型」と呼んだのだ。1)
 まさか「気」についての考察が心理学にまで発展するとは予想もしていなかった私は、黒木氏の論文を読んで更に驚くこととなった。2) 何故ならリヒアルト・ヴィルヘルム訳の「易経」の序文はユングが書いており、「彼は東洋の易経に対して実際的な側面から、自らの易を立てることによって、実証的な説明を試みた唯一の心理学者であった」そうなのである。易経と臨床心理学がこのように密接な関係を持っていることは非常に興味深い。まさに自由な発想から生まれた異分野の融合ではないだろうか。


 本レポートでは、気についての調査の際に派生した様々な考察について述べた。やはり「気」は非常に興味深い概念であるし、それは東洋思想という枠組みを超え、現代社会にも通用する概念だといえる。それは科学と調和し、キリスト教的世界観との一致を経て、臨床心理学を裏付けた。
黒木氏は、「易経は近代科学からすれば非合理であるといわれるだろうが、心理臨床に携わっているとその非合理さが時には合理的に働いているのも事実である。筆者は東洋と西洋という二元的な世界を問題にしていない」と述べている。この考察は非常に興味深い。二元的考え方は既に複雑系として躍動する現代社会には通用しないのではないだろうか。現代社会ではマスメディアが多くの事件を「黒」か「白」かという報道をして我々の興味を煽るが、実際に起きている事件にはグレーゾーンでしか語れない本質もあるだろう。日本の教育制度では高校生の時点で「理系」と「文系」のどちらかを決めないと大学進学できないのが普通になっているが、このような考え方は、自由で新しい発想を生み出せない社会構造の土壌となるだろうし、他分野に対する若者の旺盛な知識欲を奪うのではないだろうか。
このように、二元的に物事を捉えてしまうことは必ずしも万能ではなく、現代社会はもっと包括的な概念を必要としている。その包括的概念こそが、東洋の思想家達が編み出した、「気」という概念であろう。




< 参考文献 >
1) 安澤出海:元型論概説, http://i-otter.hp.infoseek.co.jp/archetype/index.html.
2) 黒木賢一 (2006):東洋思想における気の思想, 大阪経大論集 第56巻6号.












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