なんとなく深夜にBLOG更新。
近況。
12月からテレビの編集助手っつー仕事を始めて約3ヶ月が経とうとしている。
休みは平均週1日取れれば良い方なので、去年と比べると急に忙しくなった。
映画の編集と、テレビの編集のギャップに戸惑いながら。
自分がこれまでに培ってきた仕事観と、テレビ業界のそれとのギャップに戸惑いながら。
新鮮な面も、クソッタレだなと思う面も両方を感じながら。
まあボチボチとやっていく。
「自分たちの映画を作り続けるためにはどうするか」
これが去年から抱えてきた大きな宿題だが、未だに理想的な答えは見つからず。
生活と制作。この両輪を回していくのは、当然ながらそんなに簡単な事ではないようだ。
誰かに依存せずにこれをやる方法を考える。
走ると疲れる。たまに早歩きになったりしそうになるが、周りの景色を冷静に、しっかり捉えながら、歩いていく。
なーんつって。ウイスキーで乾杯。
___________
Feb 26, 2012
Nov 21, 2011
鎌倉
去る日曜日、久しぶりにお出かけという事で、鎌倉に行ってきた。
電車で約1時間。昼頃に到着し、とりあえず昼食という事で、「尾崎」という魚を食わす店でさば味噌煮定食を頂く。ツレはアジの刺身定食。瓶ビール一本。昼から飲む冷えた瓶ビールさえあれば、全然、楽しく生きていけると思った。
その後、鶴岡八幡宮へ。日曜で天気も良かった事もあるのか、かなりの人だかり。
大仏ハイキングコースなるコースをひたすら歩く。途中に浄智寺なる場所に寄る。澁澤龍彦のお墓がどこかにあるらしかったが、それほど見つける気もなく歩いていたら、やはり見つからなかった。布袋様がいた。石の。お腹をさすると元気になるらしい。元気になったと思う。いや、ならなかったかもしれない。いや、なったはずである。たぬきもいた。石の。ニヤニヤしていた。
紅葉はまだまだ色づき始めた位だったが、すすきは立派に秋の風景を作っていた。
ハイキングコースという、軽い語感から鼻歌交じりに歩くコースだと思っていたら、中々にハードな山登りコースで、トータルでは2時間半位登ったり下ったりしながら、大仏のある高徳院へ。
初めて見たのだけど、やっぱ笑ってしまった。でかくて。背中からは見ると哀愁が漂い、パックり開けられてどこか情けない感じも。奈良の大仏を見た時も思ったがこれを作った人たちは相当に愛すべきバカだと思う。もちろん、いい意味で。
大仏の中に入っても超つまらないとツレが言ったので、中には入らずに甘いものを少し食べて帰宅。
久しぶりに山の中を歩いて、気持ちが良かった。
たまには、こう、意識的に、季節の折に、自然に触れていくのがいいかなーと思う都市生活者な最近。
おまけ。帰りに江ノ電の中から撮った夕景。
電車で約1時間。昼頃に到着し、とりあえず昼食という事で、「尾崎」という魚を食わす店でさば味噌煮定食を頂く。ツレはアジの刺身定食。瓶ビール一本。昼から飲む冷えた瓶ビールさえあれば、全然、楽しく生きていけると思った。
その後、鶴岡八幡宮へ。日曜で天気も良かった事もあるのか、かなりの人だかり。
大仏ハイキングコースなるコースをひたすら歩く。途中に浄智寺なる場所に寄る。澁澤龍彦のお墓がどこかにあるらしかったが、それほど見つける気もなく歩いていたら、やはり見つからなかった。布袋様がいた。石の。お腹をさすると元気になるらしい。元気になったと思う。いや、ならなかったかもしれない。いや、なったはずである。たぬきもいた。石の。ニヤニヤしていた。
紅葉はまだまだ色づき始めた位だったが、すすきは立派に秋の風景を作っていた。
ハイキングコースという、軽い語感から鼻歌交じりに歩くコースだと思っていたら、中々にハードな山登りコースで、トータルでは2時間半位登ったり下ったりしながら、大仏のある高徳院へ。
初めて見たのだけど、やっぱ笑ってしまった。でかくて。背中からは見ると哀愁が漂い、パックり開けられてどこか情けない感じも。奈良の大仏を見た時も思ったがこれを作った人たちは相当に愛すべきバカだと思う。もちろん、いい意味で。
大仏の中に入っても超つまらないとツレが言ったので、中には入らずに甘いものを少し食べて帰宅。
久しぶりに山の中を歩いて、気持ちが良かった。
たまには、こう、意識的に、季節の折に、自然に触れていくのがいいかなーと思う都市生活者な最近。
おまけ。帰りに江ノ電の中から撮った夕景。
Oct 17, 2011
YIDFF2011 山形国際ドキュメンタリー映画祭2011
10月6日から10月13日にかけて開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭に行った。
とりあえず、観たものを列挙。観た順。
「出稼ぎ東京」
「ネネット」
「光、ノスタルジア」
「大津波のあとに」
「槌音」
「殊勲十字章」
「ソレイユのこどもたち」
「女として生きる」
「反骨の砦」
「ある国鉄乗務員」
「市民戦争」
「第十九国会」
「南ベトナム海兵大隊戦記」
「テレビに挑戦した男・牛山純一」
「ギフト」
「朝が来て終わる夜を見たことがない」
「飛行機雲(クラーク空軍基地)」
「失われた町のかたち」
「チョコラ!」
「監督失格」
「川の抱擁」
「日は成した」
「三千年の収穫」
「まなざしの旅」
「雨果(ユィグォ)の休暇」
「アミン」
「阿仆大(アプダ)」
「柔らかな河、鉄の橋」
「密告者とその家族」
こう書いてみると結構観れてない。一日サボって読書してたし。。
各作品の感想を詳細には書く気がしないけど、良かったと思ったのは(テレビ除くと)
「光、ノスタルジア」
…一見関係ない人たちを監督の感覚で繋げていっちゃう強引さが嫌いじゃない。「繋げる役割」に真摯な姿勢に共感した。
「ソレイユのこどもたち」
…スタイルが確立されてる。
「朝が来て終わる夜を見たことがない」
…スタイルが確立されてる。
「チョコラ!」
…子供達がそこに生きている事がちゃんと誰にでも伝わる。「生きている」ことへの無条件の肯定が力強く感動的。
「三千年の収穫」
…うまく言語化出来ないけどストレートで気持ちが良かった。歌が強い。(劇映画)
「雨果(ユィグォ)の休暇」
…監督の事が好きになってしまったらもうそれだけでいいのかもと思えちゃう。短いの作品なのに人間がバッチリ映ってる。
「密告者とその家族」
…一番、エンターテイメントとして成立してた。ドキュメンタリー映画なんて普段観ない人でも「面白かった」と言える強度がある。
といったところ。
他のインターナショナルコンペ作品は、
一番退屈だったのは「阿仆大(アプダ)」シネマトグラフの実践らしいが、ペドロ・コスタのコピーにしか見えなかった。
「監督失格」「失われた町のかたち」「日は成した」はどれもセンチメンタルなセルフドキュメンタリーなのに、これだけ表現が違ってくるのを比較してみると面白い。どれも好き嫌いがハッキリ分かれそう。
「殊勲十字章」は玄人の評価が高いみたい。ブレヒト?らしい。が、自分には良く分からなかった。ただ監督の父親、監督ともに、その語りの背後に見え隠れするアメリカ的傲慢さに辟易した。
「飛行機雲(クラーク空軍基地)」は長くて寝た。冗長で疲れた。もっと切れるんじゃ…
「川の抱擁」結構好き。作品としてバランスが良いと思った。
連続して濃いドキュメンタリー映画を観るのは想像以上に疲れるんだなー、と。
そして、やっぱこれは来てよかったなーと。可能なかぎり今後も行きたい。学べる。かなり。方向性が見えるというか。全体の。香味庵も人間模様が面白かった。お会いしてみたかった人たちに会える場所があるというのは贅沢な事だ。
とりあえず、こんな感じ。もっと色々あったんだけど、それについては、またいつか…
もう少し頭の中で整理して今のドキュメンタリー映画の「傾向」を書けたらいいんだけど…
まずは何か仕事探さねーと…
香味庵で飲んで疲れきった後のホテルにて。蔵王温泉で購入した「ZAWO」Tシャツを着て。
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とりあえず、観たものを列挙。観た順。
「出稼ぎ東京」
「ネネット」
「光、ノスタルジア」
「大津波のあとに」
「槌音」
「殊勲十字章」
「ソレイユのこどもたち」
「女として生きる」
「反骨の砦」
「ある国鉄乗務員」
「市民戦争」
「第十九国会」
「南ベトナム海兵大隊戦記」
「テレビに挑戦した男・牛山純一」
「ギフト」
「朝が来て終わる夜を見たことがない」
「飛行機雲(クラーク空軍基地)」
「失われた町のかたち」
「チョコラ!」
「監督失格」
「川の抱擁」
「日は成した」
「三千年の収穫」
「まなざしの旅」
「雨果(ユィグォ)の休暇」
「アミン」
「阿仆大(アプダ)」
「柔らかな河、鉄の橋」
「密告者とその家族」
こう書いてみると結構観れてない。一日サボって読書してたし。。
各作品の感想を詳細には書く気がしないけど、良かったと思ったのは(テレビ除くと)
「光、ノスタルジア」
…一見関係ない人たちを監督の感覚で繋げていっちゃう強引さが嫌いじゃない。「繋げる役割」に真摯な姿勢に共感した。
「ソレイユのこどもたち」
…スタイルが確立されてる。
「朝が来て終わる夜を見たことがない」
…スタイルが確立されてる。
「チョコラ!」
…子供達がそこに生きている事がちゃんと誰にでも伝わる。「生きている」ことへの無条件の肯定が力強く感動的。
「三千年の収穫」
…うまく言語化出来ないけどストレートで気持ちが良かった。歌が強い。(劇映画)
「雨果(ユィグォ)の休暇」
…監督の事が好きになってしまったらもうそれだけでいいのかもと思えちゃう。短いの作品なのに人間がバッチリ映ってる。
「密告者とその家族」
…一番、エンターテイメントとして成立してた。ドキュメンタリー映画なんて普段観ない人でも「面白かった」と言える強度がある。
といったところ。
他のインターナショナルコンペ作品は、
一番退屈だったのは「阿仆大(アプダ)」シネマトグラフの実践らしいが、ペドロ・コスタのコピーにしか見えなかった。
「監督失格」「失われた町のかたち」「日は成した」はどれもセンチメンタルなセルフドキュメンタリーなのに、これだけ表現が違ってくるのを比較してみると面白い。どれも好き嫌いがハッキリ分かれそう。
「殊勲十字章」は玄人の評価が高いみたい。ブレヒト?らしい。が、自分には良く分からなかった。ただ監督の父親、監督ともに、その語りの背後に見え隠れするアメリカ的傲慢さに辟易した。
「飛行機雲(クラーク空軍基地)」は長くて寝た。冗長で疲れた。もっと切れるんじゃ…
「川の抱擁」結構好き。作品としてバランスが良いと思った。
連続して濃いドキュメンタリー映画を観るのは想像以上に疲れるんだなー、と。
そして、やっぱこれは来てよかったなーと。可能なかぎり今後も行きたい。学べる。かなり。方向性が見えるというか。全体の。香味庵も人間模様が面白かった。お会いしてみたかった人たちに会える場所があるというのは贅沢な事だ。
とりあえず、こんな感じ。もっと色々あったんだけど、それについては、またいつか…
もう少し頭の中で整理して今のドキュメンタリー映画の「傾向」を書けたらいいんだけど…
まずは何か仕事探さねーと…
香味庵で飲んで疲れきった後のホテルにて。蔵王温泉で購入した「ZAWO」Tシャツを着て。
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Oct 5, 2011
After Jon Jost, Before Yamagata
土日の二日間、Jon Jostのワークショップに参加。
土曜は、渋谷界隈にて撮影をする。iPhoneで。一人で。ワークショップを20時頃に離脱し、D、Dの友達、Mさんと桜新町で飲み。起業家2人の話を聞いていて、久しぶりにMOTとかを勉強していた頃を思い出した。ビジネスマインド。かけ離れてしまってから結構時間が経ったので、新鮮だった。その「感じ」の場所にチューニングするまでに時間がかかった。
飲み会が終わって朝方から数時間かけて1分くらいのものを編集して作る。
安易なコンセプトものだったが、体験としては面白いものだった。土曜日の夕方に、2時間くらい「丸い物」を探して撮影しながら渋谷界隈を歩きまわっていたのはきっと自分だけだっただろう。
日曜はワークショップの参加者の方達がそれぞれ仕上げてきた作品を観て講評。
人それぞれ全く違った個性が出ていて面白かった。が、それと同時に、日本人は「教え」から逸脱したものを作る人が少ないなーとも感じた。
日曜はワークショップ後の飲み会に参加。そのままの流れでF監督と朝まで飲む。色々と話した気がするが、あまり覚えていない…とにかく映画についての話ばかりしていた気がするが、映画の話に興味があまりないため、なんか生意気に失礼な事を言いまくっていたかもしれない。。
月曜はJon Jost「パッサージュ」を観に行く予定が、土日の寝不足&アルコール摂り過ぎのために体調を崩しダウン。とにかく寝るしかねえと思い、日曜月曜と死んだように惰眠をむさぼる。なんとか持ち直して今。今日の深夜に、新宿発の夜行バスに乗って山形に向かう。7泊する予定。
ワークショップの後、試しに「夢のなかのイメージ」を作ってみた。
こーゆうものを今後作る事は恐らくないと思うが、編集や撮影についての自由度は広げられた気がする。
ただ、決定的に自分とは違うなーと思ったのは、自分はドキュメンタリー映画を観るときに「美しさ」は全然重視しないという事なのかもしれない。いや、美しい映像が嫌いという事ではなくて大好きなのだけど、別に手持ちブレブレの美しくない映像であっても全く不快な気分にはならない。何故なんだろう。美的感覚に不感症なのだろうか。もしかしたら「美しい」という事がある意味で無条件に「良い」とされている状況そのものに対して懐疑的なのかもしれない。
映像と音の表現における、「美しさ」については、全く考察する興味を今まで持っていなかったので、もう一度考えてみるいいきっかけとして捉えてみようと思う。
「CIRCLE in Shibuya」
「Drawing in Your Dream」
追記:YIDFF情報があまりに得られないため、twitter再開。アカウントはkawakami_takuya。このアカウントが一時的になるか恒久的になるかは未定。とりあえず自覚的に情報=命令の奴隷と化す。
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土曜は、渋谷界隈にて撮影をする。iPhoneで。一人で。ワークショップを20時頃に離脱し、D、Dの友達、Mさんと桜新町で飲み。起業家2人の話を聞いていて、久しぶりにMOTとかを勉強していた頃を思い出した。ビジネスマインド。かけ離れてしまってから結構時間が経ったので、新鮮だった。その「感じ」の場所にチューニングするまでに時間がかかった。
飲み会が終わって朝方から数時間かけて1分くらいのものを編集して作る。
安易なコンセプトものだったが、体験としては面白いものだった。土曜日の夕方に、2時間くらい「丸い物」を探して撮影しながら渋谷界隈を歩きまわっていたのはきっと自分だけだっただろう。
日曜はワークショップの参加者の方達がそれぞれ仕上げてきた作品を観て講評。
人それぞれ全く違った個性が出ていて面白かった。が、それと同時に、日本人は「教え」から逸脱したものを作る人が少ないなーとも感じた。
日曜はワークショップ後の飲み会に参加。そのままの流れでF監督と朝まで飲む。色々と話した気がするが、あまり覚えていない…とにかく映画についての話ばかりしていた気がするが、映画の話に興味があまりないため、なんか生意気に失礼な事を言いまくっていたかもしれない。。
月曜はJon Jost「パッサージュ」を観に行く予定が、土日の寝不足&アルコール摂り過ぎのために体調を崩しダウン。とにかく寝るしかねえと思い、日曜月曜と死んだように惰眠をむさぼる。なんとか持ち直して今。今日の深夜に、新宿発の夜行バスに乗って山形に向かう。7泊する予定。
ワークショップの後、試しに「夢のなかのイメージ」を作ってみた。
こーゆうものを今後作る事は恐らくないと思うが、編集や撮影についての自由度は広げられた気がする。
ただ、決定的に自分とは違うなーと思ったのは、自分はドキュメンタリー映画を観るときに「美しさ」は全然重視しないという事なのかもしれない。いや、美しい映像が嫌いという事ではなくて大好きなのだけど、別に手持ちブレブレの美しくない映像であっても全く不快な気分にはならない。何故なんだろう。美的感覚に不感症なのだろうか。もしかしたら「美しい」という事がある意味で無条件に「良い」とされている状況そのものに対して懐疑的なのかもしれない。
映像と音の表現における、「美しさ」については、全く考察する興味を今まで持っていなかったので、もう一度考えてみるいいきっかけとして捉えてみようと思う。
「CIRCLE in Shibuya」
「Drawing in Your Dream」
追記:YIDFF情報があまりに得られないため、twitter再開。アカウントはkawakami_takuya。このアカウントが一時的になるか恒久的になるかは未定。とりあえず自覚的に情報=命令の奴隷と化す。
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Sep 30, 2011
ドキュメンタリーについての散漫な試論
YIDFF2001における、審査員としての佐藤真の言葉
「ドキュメンタリーは、世界を批判的に映し出す鏡である。社会変革の道具や政治的主張のための武器としてではなく、あくまでも冷徹に世界のあり方を見つめ続けていくことによる「映像表現による批評行為」である。これが、ドキュメンタリー作家としての私のささやかな指針である。したがってその批評性とは、“真実”などは存在しないこと、現実は既にフィクションを内包していることに鋭敏に反応せざるをえないだろう。たとえ無垢な現実の断片がフィルムに映し出されたところで、それを再構成することで映画は紛れもなくフィクションになる。ドキュメンタリーの批評性とは、そうやって再構成されたフィクションが、当の現実をどの様に批判的に映し出すかによって係わっていると私は考える。」
この文章をたまたま久しぶりに読んで、思った事をツラツラと書いてみたい。この文章では推敲は極力さけるので、色んなところに寄り道するかもしれない。それをそのまま、この私的(そして恐ろしくも無限大に公的な)メディアに記録するという意味で、散漫な試論とタイトルをつけよう。
この佐藤真の文章は、ドキュメンタリー映画に関わる「日本人」としては余りに有名であるが、非常に端的に、そして明快に、彼が捉えていたドキュメンタリー映画の本質を表しており、且つ、佐藤真以降のドキュメンタリー作家達が(敢えて批評家は除こう)一種の呪縛とも言うべき粘度でもって、反芻させられてきた文章でもあると思う。
これは、個人の認知限界の話でもある。ドキュメンタリーにおいては、「神の視点」は存在しない。ここで言う「神の視点」とは何か。
フィクション映画で構築される世界では、作家そのものが一種の「神の視点」として機能する。
そこでは、現実を虚構化したものが、つまりは、現実を、「その作品内世界における神の視点を持つ監督」が、あらゆる手段(脚本、役者、美術、照明その他全て)を用いて虚構化した世界が映しだされる(その中にもドキュメンタリー性は含まれはするものの)。フィクション映画において「監督」と呼ばれているその人は、その現場において、その作品世界内における全てを把握し、制御することの【許されている】全知の神、あるいは、それを志向している存在だ(もちろん、この監督=神という立場の脱構築を図ってきた作家も存在するが、諏訪監督とかね)。撮影対象が虚構化された現実である限りにおいて、監督は神の視点を持つことが出来る。
しかし、ドキュメンタリーにおいては、作家は「神の視点」を持ち得ない。ドキュメンタリー作家は、撮影現場において、実名の、認知限界を持つ感覚器官の統合体として、現実に内包された状態で存在する。その撮影対象は虚構化されていないため(正確には、その虚構化の程度がフィクションと比較して極端に小さいため)、ドキュメンタリー作家はやはり神の視点を持ち得ない。もしくは、神の視点を持ちながらその世界を「制御」していく事が存在として【許されていない】。ドキュメンタリーにおいて、作家が撮影対象を「制御」することを「演出」と呼ぶとすれば、その「制御能力の高さ」=「演出力の高さ」となってしまう。撮影現場(それは、その場に存在している光や音、被写体となっている人間、そしてスタッフ含め)を制御することを志向する作家は、いずれその制御力拡大の欲望から逃れられなくなり、結果としてフィクション作家への道を進んでいくのではないだろうか(例えば、是枝裕和や河瀬直美という偉大な監督は、そういったタイプだと分類出来るかもしれない。一応エクスキューズしておくが、私は両監督を尊敬している)。
ドキュメンタリー作家は恐らくは、「現実」を「制御」する権限を持たない。自己が現実に内包されており、虚構化も許されない実世界において、ドキュメンタリー作家は、「真実などは存在しないこと」「現実は既にフィクションを内包していること」を常に敏感に意識しながら、対象を批評的によく「見ること」しか出来ない。どれだけ「見ること」が出来るか。それがドキュメンタリー作家に問われる第一の資質だ。土本典昭や小川紳介といった偉大なドキュメンタリー作家たちの作品を見なおしてみても、現場において監督含むスタッフ達が、如何に「見ること」に長けていたかを実感する。
これを、「誰にでも分かる」テーゼとしてクレバーに提唱し直し・実践しているのが想田和弘という作家なのかもしれない。参与観察(作家自身がその撮影現場にいるという事実を前提とし、それによって変容した現実そのものを観察する)とは、そもそもドキュメンタリーを撮る者にとっては、いわば「前提」と言えるような態度である。しかしながら、そのようなドキュメンタリーにおける本質的な問題は、普段ドキュメンタリーについて考察する機会のなかった人達(これはつまりは、9割以上を占める観客と言えるが)にとってはある種の目新しさがある。それを自らの作品と、説得性の高い言葉によって、ある種「啓蒙」しているのが想田和弘という作家ではないだろうか。ドキュメンタリー映画という、産業としては弱小中の弱小である世界が、広く一般に誤解なく普及するためには、まさしく想田のような存在が必要不可欠だろう。ありがたい、と思いはすれ、んなことはみんな分かってやって来たのに何を今さら偉そうに、などという嫉妬混じりの発言はする気になれない。そういう事を言説化した上で、間口を開いていく努力をしてこなかった結果が、今のドキュメンタリー映画産業において「ドキュメンタリー映画じゃ食えないよ」というクリシェを安酒片手にニヒルな態度で下の世代に語ってきた者たちの、問われるべき責任ではなかったか。
冒頭の佐藤真の言葉に戻ろう。
たった一年間ドキュメンタリー映画に関わった人間としては、この言葉において実感として理解出来る部分もあるが、不明な部分もある。
「…映像表現による批評行為」というものは、そのまま、その通りだと思う。
「“真実”などは存在しないこと」「現実は既にフィクション性を内包していること」
この二点については、ドキュメンタリーというもの以前に、リテラシーというレベルで常に認識せざるを得ない時代に育ったと自己分析しているため、深く理解している。
「たとえ無垢な現実の断片がフィルムに映し出されたところで、それを再構成することで映画は紛れもなくフィクションになる。」
これも、撮影し、編集する、という行為を何度か実践した後になっては、実感として理解出来る。
さて、問題は最後の一文である。
「ドキュメンタリーの批評性とは、そうやって再構成されたフィクションが、当の現実をどの様に批判的に映し出すかによって係わっていると私は考える。」
佐藤真は、ここで「現実を『批判的に映し出す』」と書いた。
現時点で自分に分からないのはこの一点に尽きる。現実を批評的に、冷徹に見続ける眼差しが、ドキュメンタリー映画を作品として成立されられるかどうかの芯を左右するのは分かるが、2011年という、この時代において、「批判的」に映し出すことの意義とは何だろう。何故、「批判的」という言葉を用いたのだろう。
私は、現実を「批評的」に見る事には一点の曇もなく同意する。
ドキュメンタリー映画が担う役割があるとすれば、まさしくそこに尽きるのではないかとすら思う。
しかし、何故、「批判的」という言葉がこの文章の冒頭と締めくくりに2度使われたのか。
というのは、私はドキュメンタリー映画というものが、現実を「肯定的に」映し出すことにも大いに意義を見出すからだ。むしろ、3.11以降の日本において何かを撮るという行為においては、「批判的」な眼差しよりも「肯定的」な眼差しの方が重要かもしれないとすら思う。
どれだけ自分がやれるかは、未だに全く分からないが、「ドキュメンタリー映画」というものが、何かそこにある現実の一部を「肯定的」に映し出すことによって、同時にそこにある世界に対して強烈な「批評性」を持つことが可能だろうと考える。
批判的に物事を捉えるよりも、肯定的に捉えるという姿勢が、今、失われつつあるもの、そして寄り添っていくべきものであるような気がするのだ。
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今、佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」を読み直している。
思想の本ではあるものの、非常に読みやすいので、色んな人にオススメ。その中のニーチェの引用を。
※ちなみに東浩紀および福嶋亮大は、この本および佐々木中を痛烈に批判した。
「おお、諸君世界政策の大都会にすむ哀れな奴よ。諸君若くして才能に恵まれ、名誉心に苦しめられている人々よ。諸君は、あらゆる出来事に−しょっちゅう何かしらが起こるのだから−一言するのを義務と心得ている!諸君は、こういう風にして埃をたてて騒げば、歴史の車になると信じている!諸君は、いつも耳を澄まし、いつも一言投げ入れることができる機会をねらっているから、真の生産力をすっかり失くす!よしんば諸君がどんなに大事業を切望しようとも、懐妊の深い寡黙は、決して諸君のもとに来はしない!時代の出来事が、諸君を籾殻のように追っていく。諸君は出来事を追っているつもりなのに。」
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「ドキュメンタリーは、世界を批判的に映し出す鏡である。社会変革の道具や政治的主張のための武器としてではなく、あくまでも冷徹に世界のあり方を見つめ続けていくことによる「映像表現による批評行為」である。これが、ドキュメンタリー作家としての私のささやかな指針である。したがってその批評性とは、“真実”などは存在しないこと、現実は既にフィクションを内包していることに鋭敏に反応せざるをえないだろう。たとえ無垢な現実の断片がフィルムに映し出されたところで、それを再構成することで映画は紛れもなくフィクションになる。ドキュメンタリーの批評性とは、そうやって再構成されたフィクションが、当の現実をどの様に批判的に映し出すかによって係わっていると私は考える。」
この文章をたまたま久しぶりに読んで、思った事をツラツラと書いてみたい。この文章では推敲は極力さけるので、色んなところに寄り道するかもしれない。それをそのまま、この私的(そして恐ろしくも無限大に公的な)メディアに記録するという意味で、散漫な試論とタイトルをつけよう。
この佐藤真の文章は、ドキュメンタリー映画に関わる「日本人」としては余りに有名であるが、非常に端的に、そして明快に、彼が捉えていたドキュメンタリー映画の本質を表しており、且つ、佐藤真以降のドキュメンタリー作家達が(敢えて批評家は除こう)一種の呪縛とも言うべき粘度でもって、反芻させられてきた文章でもあると思う。
これは、個人の認知限界の話でもある。ドキュメンタリーにおいては、「神の視点」は存在しない。ここで言う「神の視点」とは何か。
フィクション映画で構築される世界では、作家そのものが一種の「神の視点」として機能する。
そこでは、現実を虚構化したものが、つまりは、現実を、「その作品内世界における神の視点を持つ監督」が、あらゆる手段(脚本、役者、美術、照明その他全て)を用いて虚構化した世界が映しだされる(その中にもドキュメンタリー性は含まれはするものの)。フィクション映画において「監督」と呼ばれているその人は、その現場において、その作品世界内における全てを把握し、制御することの【許されている】全知の神、あるいは、それを志向している存在だ(もちろん、この監督=神という立場の脱構築を図ってきた作家も存在するが、諏訪監督とかね)。撮影対象が虚構化された現実である限りにおいて、監督は神の視点を持つことが出来る。
しかし、ドキュメンタリーにおいては、作家は「神の視点」を持ち得ない。ドキュメンタリー作家は、撮影現場において、実名の、認知限界を持つ感覚器官の統合体として、現実に内包された状態で存在する。その撮影対象は虚構化されていないため(正確には、その虚構化の程度がフィクションと比較して極端に小さいため)、ドキュメンタリー作家はやはり神の視点を持ち得ない。もしくは、神の視点を持ちながらその世界を「制御」していく事が存在として【許されていない】。ドキュメンタリーにおいて、作家が撮影対象を「制御」することを「演出」と呼ぶとすれば、その「制御能力の高さ」=「演出力の高さ」となってしまう。撮影現場(それは、その場に存在している光や音、被写体となっている人間、そしてスタッフ含め)を制御することを志向する作家は、いずれその制御力拡大の欲望から逃れられなくなり、結果としてフィクション作家への道を進んでいくのではないだろうか(例えば、是枝裕和や河瀬直美という偉大な監督は、そういったタイプだと分類出来るかもしれない。一応エクスキューズしておくが、私は両監督を尊敬している)。
ドキュメンタリー作家は恐らくは、「現実」を「制御」する権限を持たない。自己が現実に内包されており、虚構化も許されない実世界において、ドキュメンタリー作家は、「真実などは存在しないこと」「現実は既にフィクションを内包していること」を常に敏感に意識しながら、対象を批評的によく「見ること」しか出来ない。どれだけ「見ること」が出来るか。それがドキュメンタリー作家に問われる第一の資質だ。土本典昭や小川紳介といった偉大なドキュメンタリー作家たちの作品を見なおしてみても、現場において監督含むスタッフ達が、如何に「見ること」に長けていたかを実感する。
これを、「誰にでも分かる」テーゼとしてクレバーに提唱し直し・実践しているのが想田和弘という作家なのかもしれない。参与観察(作家自身がその撮影現場にいるという事実を前提とし、それによって変容した現実そのものを観察する)とは、そもそもドキュメンタリーを撮る者にとっては、いわば「前提」と言えるような態度である。しかしながら、そのようなドキュメンタリーにおける本質的な問題は、普段ドキュメンタリーについて考察する機会のなかった人達(これはつまりは、9割以上を占める観客と言えるが)にとってはある種の目新しさがある。それを自らの作品と、説得性の高い言葉によって、ある種「啓蒙」しているのが想田和弘という作家ではないだろうか。ドキュメンタリー映画という、産業としては弱小中の弱小である世界が、広く一般に誤解なく普及するためには、まさしく想田のような存在が必要不可欠だろう。ありがたい、と思いはすれ、んなことはみんな分かってやって来たのに何を今さら偉そうに、などという嫉妬混じりの発言はする気になれない。そういう事を言説化した上で、間口を開いていく努力をしてこなかった結果が、今のドキュメンタリー映画産業において「ドキュメンタリー映画じゃ食えないよ」というクリシェを安酒片手にニヒルな態度で下の世代に語ってきた者たちの、問われるべき責任ではなかったか。
冒頭の佐藤真の言葉に戻ろう。
たった一年間ドキュメンタリー映画に関わった人間としては、この言葉において実感として理解出来る部分もあるが、不明な部分もある。
「…映像表現による批評行為」というものは、そのまま、その通りだと思う。
「“真実”などは存在しないこと」「現実は既にフィクション性を内包していること」
この二点については、ドキュメンタリーというもの以前に、リテラシーというレベルで常に認識せざるを得ない時代に育ったと自己分析しているため、深く理解している。
「たとえ無垢な現実の断片がフィルムに映し出されたところで、それを再構成することで映画は紛れもなくフィクションになる。」
これも、撮影し、編集する、という行為を何度か実践した後になっては、実感として理解出来る。
さて、問題は最後の一文である。
「ドキュメンタリーの批評性とは、そうやって再構成されたフィクションが、当の現実をどの様に批判的に映し出すかによって係わっていると私は考える。」
佐藤真は、ここで「現実を『批判的に映し出す』」と書いた。
現時点で自分に分からないのはこの一点に尽きる。現実を批評的に、冷徹に見続ける眼差しが、ドキュメンタリー映画を作品として成立されられるかどうかの芯を左右するのは分かるが、2011年という、この時代において、「批判的」に映し出すことの意義とは何だろう。何故、「批判的」という言葉を用いたのだろう。
私は、現実を「批評的」に見る事には一点の曇もなく同意する。
ドキュメンタリー映画が担う役割があるとすれば、まさしくそこに尽きるのではないかとすら思う。
しかし、何故、「批判的」という言葉がこの文章の冒頭と締めくくりに2度使われたのか。
というのは、私はドキュメンタリー映画というものが、現実を「肯定的に」映し出すことにも大いに意義を見出すからだ。むしろ、3.11以降の日本において何かを撮るという行為においては、「批判的」な眼差しよりも「肯定的」な眼差しの方が重要かもしれないとすら思う。
どれだけ自分がやれるかは、未だに全く分からないが、「ドキュメンタリー映画」というものが、何かそこにある現実の一部を「肯定的」に映し出すことによって、同時にそこにある世界に対して強烈な「批評性」を持つことが可能だろうと考える。
批判的に物事を捉えるよりも、肯定的に捉えるという姿勢が、今、失われつつあるもの、そして寄り添っていくべきものであるような気がするのだ。
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今、佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」を読み直している。
思想の本ではあるものの、非常に読みやすいので、色んな人にオススメ。その中のニーチェの引用を。
※ちなみに東浩紀および福嶋亮大は、この本および佐々木中を痛烈に批判した。
「おお、諸君世界政策の大都会にすむ哀れな奴よ。諸君若くして才能に恵まれ、名誉心に苦しめられている人々よ。諸君は、あらゆる出来事に−しょっちゅう何かしらが起こるのだから−一言するのを義務と心得ている!諸君は、こういう風にして埃をたてて騒げば、歴史の車になると信じている!諸君は、いつも耳を澄まし、いつも一言投げ入れることができる機会をねらっているから、真の生産力をすっかり失くす!よしんば諸君がどんなに大事業を切望しようとも、懐妊の深い寡黙は、決して諸君のもとに来はしない!時代の出来事が、諸君を籾殻のように追っていく。諸君は出来事を追っているつもりなのに。」
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