・システム工学分野におけるシステムの定義
「機能が異なる複数の要素が密接に関係し合うことで、全体として多くの機能を発揮する集合体」
・ギー・ドゥボール
「映画の機能は、劇作品であれドキュメンタリーであれ、孤立した偽の一貫性を、そこに存在しないコミュニケーションや活動に代わるものとして差し出すことである」
時代性を全く無視した『私の表現』がメインのドキュメンタリーには、今は興味が沸かない。セルフドキュメンタリーに興味がない訳ではない。その自己の存在自体を時代性の中で自身が批評的に捉えられているならば。ただ、時代性だけで作品成立を担保している映画もそれほど面白いと思えない。相反するように思えるが、何故今撮らなければいけないのかという問いと共に、表現としていつどこで観られても耐えられる普遍性を獲得しているかという問いがあり、その2つの問いに答えられる作り方をしたい。時代性と普遍性が両立するものをどうにか作るには…短期間で消費されるものをドキュメンタリー映画として作っても仕方がない。将来的に「この時代」が映っているという事で普遍性を獲得する。というのではなく、現時点で何かしらの普遍性を獲得しているもの。しかも現在に正面から向き合いきちんと批評的に捉えているものを作りたい。まず、これが一つの、今の自分の正直な前提としてある。
自分が好きなドキュメンタリーを考える。そこには人間が映っていると共に、何かしら構造と呼ばれるようなものも映っている。それはシステムと言い換えてもほぼ問題ない。人間に入り込む中で構造が見えてくるもの、構造を正確に捉えていくなかで人間が浮かびあがるもの、その両者を並行的にバランスを取って編集して成功しているもの。基本的にはこの3パターンが王道としてあると思う。時代性とは恐らくまず何かしらの構造の中に隠されているものであり、普遍性は恐らく人間の中に潜んでいる。例外は多々あるだろうが、とりあえずはこの仮定の下で考えを進めたい。
ここまでまとめ。成立条件:時代性・普遍性の両立。時代性=構造。普遍性=人間。
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※この観点でMAKING of MANGAを自己批評してみる※
MAKING of MANGAで映っているものはマンガ執筆のディテール(=物質の変化)。その作品を執筆する新人漫画家の現在置かれた状況。その2つだった。新人として何かを作っている人間としてのある種の普遍性は、かろうじて映っていると言ったとしても、明らかに構造の部分が足りていない。そのため、時代性が捨てられている。また、人間の「変化」も捉えられていない。「マンガ原稿」というものが出来るまでは、単純に「頑張ってずっと撮影する」という方法によって撮れているが、「マンガ単行本」という商品が出来るまでは正確には映せていない。そのため、「制作」の構造が映画に取り込まれていない。構造を映すためには一人の人間を撮るだけでは不可能だ。構造(=システム)の定義の通り、そこには「異なる複数の要素」が存在しなければならない。そして、その要素同士が「密接に関係しあって」いなければならない。つまり、構造をMAKING of MANGAに取り込むためには、漫画家と担当編集者の関わりと、マンガ雑誌そのもののデザインをしている編集長の言葉がなければいけないという事だ。そこが圧倒的に弱いために、構造が映っていない。ここの構造がもっと明確に提示されていれば、その構造の中で動く要素としての漫画家その人の心情の吐露のシーンがより生きてくるはずなのだ。その点が「物足りない」という事になる。
もう一つ、人間の変化が捉えられていない部分に関して。これは、スタッフ全員がその変化を発見する目を現場で持ち得ていなかったこと(そこに意識が向いていなかったこと)が原因だろう。
MAKING of MANGAを作り始める時に、この構造をどう入れ込むかという部分について、十分に明確な考えを持てていなかった構成者(=おれ)に問題があったと言える。これは批判される一つの要因となる。30分という尺の中で、どう構造を落としこむのか、がもう少し明確になっていれば、もしかしたら両立出来たかもしれないのだ。修了制作として提示された「出来るまで課題」として作品を作ったという態度そのものを、今、もう一度反省する必要がある。結果として、「出来るまで作品として」ある一定の完成度を持ったが、「ドキュメンタリー作品として」は、やはり時代性というものが圧倒的に欠けているのだ。作り手側の「これは出来るまで課題として制作された作品で…」というエクスキューズは、観客には興味がない。
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人間が映っているかどうかは、恐らく現場にかかっている。現場のキャメラマンの目であり、監督やスタッフの発見。その中で対象との関係性を築けているか。その次に、ある種冷めた目で抑制的に対象を見ることが出来るかどうかだと思う。対象の言っている事に共感する部分と批判的な部分とを健全に持ちつつも、どこか「この人は、こういう事を、こういう表情で、こういう口調で、言っている」というだけの目を常に持ち続けられるかどうかにかかっている。気をつけるべきは、この人の言っている事が全て正しいとも、全て間違っているとも思わない態度を持ち続けることだ。全く正しい人も、全く間違っている人も、きっといないのだ。自分と同じ考えの人と、異なる考えの人がいるだけ。それを忘れたら恐らく人間を見たと言うことは出来ないはずだ。そこにあるのは、ただ、「この立場の人間が、こういう事を言っている」という事実性だけだ。
人間は知識では映せないのだろうと思う。人間をきちんと見るためには、誠実な態度、相手の人生に対する愛が必要だ。逆に言えば、それさえきちんと持ち続けていれば、自分の作品の表現として人間を「使う」ような撮り方にはならず、冷静に人間を見つめる眼差しを持てるはずだ。
構造を映せるかどうか。これは人間を見る目とは少し違った、理性や知性の領域の問題だろうと思う。
時代性を表象しているものが構造だとすれば、構造を作り手として批評的に見るためには知識が必要だ。他のあらゆる構造について知り、自分が対象に選択した構造そのものと比較した上で考察出来る知性が必要になってくる。そのためには、歴史を学ばなければならないだろう。特にドキュメンタリー映画は長い視点で構造を捉えることが出来る貴重な表現のはずだから、あらゆる目の前の問題を、分母の大きい時間軸の中で、また体積の大きい空間の中で、その都度捉え直していく知性が必要になるのだと思う。
やるべき事は、まだまだたくさんあるのだ。
きっと、こういう事は色んな本にもっと明確に考察されているのだろうと思うが、今は、自分だけで一から考え直したい気分。本で読んでなるほどーと思った事は、なんか、結構忘れちゃう。でも自分で一から考えて、その後同じような事を書いてる本を読むと、一生忘れない。
追記:
最も単純に書くとこういうイメージ。このイメージでとりあえず考えてるのがこの文章。
点が人間。人間はそのものは時間関数。そのものが変化する。その個人の変化によって周りとの関係が変化する。それによって赤線が描く形が変わる。赤線の形が時代。外側の丸が「世界」。世界は人間にも時代にも関係ない不変の何かとして存在している。本当は人間という時代(=赤線の形=構造)を構成する一つの要素自体の形もバラバラで点だけではないし、要素間を結びつけているのは方向性を持ったベクトルだし、そのベクトルには関係性の強さという意味で太さがある。きっと、インターネット以前/以後で時代を分けられると考えると、以前の段階では小さいネットワーククラスタが無数にある世界だったのが、以後ではクラスタ間がほぼ無関係に繋がったのだと思う。線が一気に増えたため、形=時代が把握しづらくなっている。でもその線は以前に描かれていた線より恐らく細いもので、これが今後太くなっていくのか、切れたり繋がったりして細いままなのかが、多分2010年代に明らかになっていくことだと思う。
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Sep 22, 2011
Aug 31, 2011
「本当はナンバーワンになりたいのか?」問題
来月の山形国際ドキュメンタリー映画祭に、行こうかどうか迷っている。
行くなら7泊くらいしないとだめだが、少なく見積もっても移動費、宿泊費、飯代で6万くらいはかかりそうだ。
で、短期のバイトをネットの求人サイトみたいなとこで探していた夜。
「働きたい時だけ働いて、ガッツリ稼ごう!」
「自らの頭で考える人を募集!」
「あなたの個性を存分に発揮!」
「スキルアップが望める仕事です!」
みたいな文句が並ぶ。
なんて素晴らしいんだ。不景気、不景気と皆言うが、ネットを使いこなして求人サイトを覗けばコレだ。
ハハ、阿呆らし。ちょっとネットを使いこなしてみればほうら見ろ。素晴らしい仕事がこんなにたくさんあるではないか。
どの募集に出ている人たちも溢れんばかりの笑顔。笑顔。笑顔。
どれ、こんな事実を私の愚鈍な友人で、いつも仕事が仕事がといって暗い顔をしておるあやつに教えてこましたろ。
こんなに、素晴らしそうな仕事が世の中には溢れているって事をさ。
ああ、自分は先進国日本に生まれて良かった幸せ。
嘘である。
正しく書きなおしてみよう。
「働きたい時だけ働いてガッツリ稼ごう!(※いつでも切れるバイトを増やして社員を減らせば弊社に利潤がでますので)」
「自らの頭で考える人を募集!(※但し、業務の社会的意義や、倫理などについてはあまり真剣に考えないで下さい)」
「あなたの個性を存分に発揮!(※但し、会社の規程の枠内でのみ。髪の毛は黒く、短めが望ましい)」
「スキルアップが望める仕事です!(※本当にスキルのある方は初めから正社員として各社に入社しておりますが)」
この求人募集に書かれている言葉とイメージは、ほぼ、嘘ではないか。
何故、これほどまでの嘘を大っぴらに書いていて許されるのか。公共広告機構みたいなとこに怒られないのか。
私は憤慨した。苦虫を噛み潰した顔をしながらウイスキーを飲み干した。
余りにグラスを持つ手に力が入ってしまい、ひびが入って、ガラスの破片が指先に突き刺さり、血が滴ったウイスキーを、飲み干した。
嘘である。
そんなに怒ることはない。だって、ここに書いてある言葉と、イメージは、その事を意識することもなく
「嘘である」と、認識しているからだ。大抵の人は。
よく考えると、不自然にも。
ついでにこんな歌詞が、日本では爆発的人気になったりする。
「ナンバーワンにならなくていい 元々特別なオンリーワン」
そうか、日本人ってのはみんな、「オンリーワン」な存在を認めているのだ。
競争社会など日本人は嫌いで、誰に勝つとか負けるとか、嫌いなのだ。
個性を認める国民性。ユニークな人間を認める国民性。みんな、そのままでいいんだ。
Peace!
We are all one!素晴らしい。
こんな平和で寛大な精神を持つ、日本人として生まれて育ってこれて良かった幸せ。
嘘である。
どうも世の中を見回すと逆である。
社会に適応していく人間は、どちらかというと、無個性、無主張、無思想、無批判、無関心、無知。
流される人ほど適応していく。流されない奴は適応に手こずる。
なんで「ナンバーワンにならなくていい 元々特別なオンリーワン」って歌詞が大好きなのに、
皆東大に入りたいのか。東大卒を凄いと言うのか。1流企業に勤めている人たちを凄いと言うのか。
てゆうか、「ナンバーワンにならなくていい」のだから、企業に1流も2流も3流もない。学歴も一緒だ。
この日本人の捻れた感覚はどこから来たのか。それは歴史的にもそうであったのか。それとも最近の事なのか。
「ナンバーワンにならなくていい 元々特別なオンリーワン」
という歌詞を、国民の大半を占める人たちが「素晴らしい」と言う。それは素直に言っているように思える。
でも、同時にその大半を占める人たちが、実社会では「オンリーワン」を嫌っているように感じられる。
「オンリーワン」は、なるべく排除しようと動いている気がする。
自分が「オンリーワン」にならないように、日々努力している気がする。
この国の国民は分からん。
嘘を氾濫させすぎて、広告も、メディアも、人間関係も、経済も、政治も、嘘の上でしか回らないようになってしまったように見える。嘘を氾濫させすぎて、それが嘘であったかどうかも認識せずに生きている気がする。
そして、野田って、誰だ?
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行くなら7泊くらいしないとだめだが、少なく見積もっても移動費、宿泊費、飯代で6万くらいはかかりそうだ。
で、短期のバイトをネットの求人サイトみたいなとこで探していた夜。
「働きたい時だけ働いて、ガッツリ稼ごう!」
「自らの頭で考える人を募集!」
「あなたの個性を存分に発揮!」
「スキルアップが望める仕事です!」
みたいな文句が並ぶ。
なんて素晴らしいんだ。不景気、不景気と皆言うが、ネットを使いこなして求人サイトを覗けばコレだ。
ハハ、阿呆らし。ちょっとネットを使いこなしてみればほうら見ろ。素晴らしい仕事がこんなにたくさんあるではないか。
どの募集に出ている人たちも溢れんばかりの笑顔。笑顔。笑顔。
どれ、こんな事実を私の愚鈍な友人で、いつも仕事が仕事がといって暗い顔をしておるあやつに教えてこましたろ。
こんなに、素晴らしそうな仕事が世の中には溢れているって事をさ。
ああ、自分は先進国日本に生まれて良かった幸せ。
嘘である。
正しく書きなおしてみよう。
「働きたい時だけ働いてガッツリ稼ごう!(※いつでも切れるバイトを増やして社員を減らせば弊社に利潤がでますので)」
「自らの頭で考える人を募集!(※但し、業務の社会的意義や、倫理などについてはあまり真剣に考えないで下さい)」
「あなたの個性を存分に発揮!(※但し、会社の規程の枠内でのみ。髪の毛は黒く、短めが望ましい)」
「スキルアップが望める仕事です!(※本当にスキルのある方は初めから正社員として各社に入社しておりますが)」
この求人募集に書かれている言葉とイメージは、ほぼ、嘘ではないか。
何故、これほどまでの嘘を大っぴらに書いていて許されるのか。公共広告機構みたいなとこに怒られないのか。
私は憤慨した。苦虫を噛み潰した顔をしながらウイスキーを飲み干した。
余りにグラスを持つ手に力が入ってしまい、ひびが入って、ガラスの破片が指先に突き刺さり、血が滴ったウイスキーを、飲み干した。
嘘である。
そんなに怒ることはない。だって、ここに書いてある言葉と、イメージは、その事を意識することもなく
「嘘である」と、認識しているからだ。大抵の人は。
よく考えると、不自然にも。
ついでにこんな歌詞が、日本では爆発的人気になったりする。
「ナンバーワンにならなくていい 元々特別なオンリーワン」
そうか、日本人ってのはみんな、「オンリーワン」な存在を認めているのだ。
競争社会など日本人は嫌いで、誰に勝つとか負けるとか、嫌いなのだ。
個性を認める国民性。ユニークな人間を認める国民性。みんな、そのままでいいんだ。
Peace!
We are all one!素晴らしい。
こんな平和で寛大な精神を持つ、日本人として生まれて育ってこれて良かった幸せ。
嘘である。
どうも世の中を見回すと逆である。
社会に適応していく人間は、どちらかというと、無個性、無主張、無思想、無批判、無関心、無知。
流される人ほど適応していく。流されない奴は適応に手こずる。
なんで「ナンバーワンにならなくていい 元々特別なオンリーワン」って歌詞が大好きなのに、
皆東大に入りたいのか。東大卒を凄いと言うのか。1流企業に勤めている人たちを凄いと言うのか。
てゆうか、「ナンバーワンにならなくていい」のだから、企業に1流も2流も3流もない。学歴も一緒だ。
この日本人の捻れた感覚はどこから来たのか。それは歴史的にもそうであったのか。それとも最近の事なのか。
「ナンバーワンにならなくていい 元々特別なオンリーワン」
という歌詞を、国民の大半を占める人たちが「素晴らしい」と言う。それは素直に言っているように思える。
でも、同時にその大半を占める人たちが、実社会では「オンリーワン」を嫌っているように感じられる。
「オンリーワン」は、なるべく排除しようと動いている気がする。
自分が「オンリーワン」にならないように、日々努力している気がする。
この国の国民は分からん。
嘘を氾濫させすぎて、広告も、メディアも、人間関係も、経済も、政治も、嘘の上でしか回らないようになってしまったように見える。嘘を氾濫させすぎて、それが嘘であったかどうかも認識せずに生きている気がする。
そして、野田って、誰だ?
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Jul 18, 2011
「世界なう」に漂流する「わたしなう」の覚悟はあるか
さて、ここにも書いたように、先日twitterをやめてしまったため、多少の「禁断症状」とでも呼ぶべきものが時たま出てきており、iPhoneをなんとなくトイレに持ち込んでポチポチやろうとして(しかも無意識に!)「あっtwitterアプリないのか」という瞬間や、寝転がりながら何となくiPhoneをポチポチやるときに「あっtwitterやめたんだった」みたいな瞬間があるという事態になっております。そんな感じで、世界中のネットサーバに膨大に存在する(そしてそれは随時更新されている!)情報が作り出している仮想的な「世界」に自分がどれくらいどっぷりと依存していた/いるのか、という事を「認識/思考/予測」といった概念的なレベルからではなく「親指が押すアプリが無い」という物理的な実体験として経験するような、ある種実に現代人的な週末を過ごしているのですが、そんな中で一つ明らかになったことは、twitterをやめる=BLOGの更新率が上がる。という事でありまして、まあこの症状はすでに数年前のmixi退会直後1ヶ月程度の期間に経験済みのことでありますが、やはり今後のいくつかのエントリーはその症例として立ち上がってくるであろう事を冒頭で宣言しておくべきでしょう。それがtwitterのように断片的な、ラーメン食った(写真付き)・なでしこオメデトウ!・渋谷へ向かうなう、のような代替的な形をとるのか、今回のような超長文というtwitterによって抑圧されてきた思考形態として反動的な形をとるのか、については明記しかねるところです。
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ここで予め、少し、「筆者の状況なう」をご説明させて頂きましょう。
1.ついさっき、「なでしこJAPANがワールドカップ優勝」という、エキサイティングな経験を生中継のテレビにより経験したばかりだという事。
(余談ですが、澤選手の2点目については奇跡としか言いようがありません。そしてUSA as No.1という建国以来ただ一つ守ってきたアイデンティティを経済的に急速に失いつつあり、アフガニスタンからの撤退と軍事費縮小を余儀なくされ、スペースシャトルをもうこれ以上打ち上げる予算がなく、宇宙開発の面でロシアを打ち負かす事がとうとう叶わなかったという状況の中で、すでに自信を失いかけていたアメリカ国民が、大戦以降は無意識的に「属国(=可愛いペット)」として認識している東洋の小国Japanに対して、絶対的な優位を誇っている「フィジカル」なスポーツで敗退してしまったというショックはあまりにも大きいと予測することは容易であり、教育がほぼされていないようなバイブルベルトのような地域で今後多少のヒステリックな「日本嫌悪現象」が生じる事は間違いないでしょう)
2.冒頭に述べた通り、約1年半ヘヴィユーザとして使用していたtwitterを退会したという事。それはつまり、仮想世界において「AAAIAUA」という名前によって場所と時間を超えて存在していた「現在」の喪失であるという事。
3.ここ最近「お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か」という日本が誇るテレビマン3人のテレビ論を少しずつ読んでいるという事。テレビは生、現在性、ジャズのような即興性のメディアだとの議論がなされている事。
この3つの状況に共通するもの。それは「現在性」という問題です。
***************************************************************************
twitter以前から、「自分に何が起こったか。」を人に伝えたいとの思いは全世界共通/全時代共通の基本的な人間の欲求であるという事は、マズローの5段階説を考慮してもある程度は正しいと言えることでしょう。認識欲求であるとか、自我欲求を満たすために、現代人はネットというツールを駆使している訳です。これは裏返すと、現代は物理的なレベルで認識欲求や自我欲求が満たされにくい時代だとも言うことが出来る。時代性がtwitterの普及を導いたのか、twitterが予め存在していた時代性を促進したのか、それとも両方が相互的に作用しているのか。これも面白い議題ですが、本論から逸脱しすぎるので省略しましょう。
さて、twitterの「いまなにしてる?」という問いかけの新規性/革新性は、従来いつの時代、どこの土地においても当たり前に会話の発端になっていた「今日どうだった?=How's today?」もしくは「最近どうよ?=What's up?」といった「現状確認」に対して使用されていた「一日/数日/数時間」という単位を「いま。なう」という無限小(いまは瞬間ですから、それは無限小の単位です)に置き換えてしまう事によって、24時間いつでもどこでも好きな時に好きなだけ認識欲求を満たしてくれる(自分のフォロワーが自分のtweetを「見てくれている」という認識によって)といった、いわば全てが「24時間化」されていく21世紀の必然にフィットしたコンセプトにあったと言えます。
twitterに限らず、世界中に張り巡らされている「インターネット」は、24時間、どこかで誰かがその存在を主張している、そしてそれがダイレクトに見えてしまうという強力な機能をあらかじめ持っています。
「インターネットへのアクセス権」は、少々乱暴に言い換えてしまえば「現在性へのアクセス権」です。
その「現在性へのアクセス権」は、以前は物理的な距離に縛られており且つその存在時間に対して鈍感であった「私という存在」を、「私という存在なう」もしくは「私という存在at 9pm 2011/7/18」に置き換えてしまった。私という存在に時間という属性を強力に付加した。それがサーバ上に残るため、あらゆる過去の時間に存在していた「私」と「あなた」という幽霊が半永久的にさまようのがネット空間という事になっている。そしてそれは正に「今」も増殖している。更新されている。
そのような「現在性の民主化」とも言えるような現象は、あらゆるSNSによって世界的に、爆発的に起こっていると言えます。
忘れてはならない事は「インターネット上の存在」は全て幽霊だ。という事です。それらの存在はアップした瞬間に、幽霊(=過去に存在し、今は存在しない)になります。現実の存在とは基本的に別の性質を持っていると考えるのが一般的もしくは健康的と言える。現実の存在というものは時間によって切り取る事が出来ないからです(それは死者にのみ可能です)。
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さて、ここで、テレビについて考えてみます。
テレビの衰退は「番組の質が低くなった」事が原因なのか、「メディアとしての役割/ジャーナリズムとしての機能を正常に果たしていない」事が原因なのか。実はちょっと本質的には違うんじゃないか。という疑問を抱いています。
一つ、仮定として「テレビが現在性を失った」事が最も本質的なテレビ衰退の原因だとしてみましょう。
それは「テレビ業界」の中に存在する問題なのか。それも多少はあるかもしれないが、根本的には違うのではないか。「現在性」を「インターネット」が急速に獲得した事が真因なのではないかと疑っている訳です。
テレビのニュースで流れてくる事。それを「私はすでに知っている。インターネットを通して」。これが現在のテレビニュースが抱えてしまっている致命的な弱点です。テレビのニュースはネットユーザにとってほぼ全てがオールドになってしまった。ここ数年で、従来テレビが独占していた「現在性」をネットが代替出来るようになっています。ニコニコ動画が生放送を始め、USTREAMが普及し、twitterが「ネット上の生」を急速的に広める機能を担っている。いや、ネット上の生だけではない、現実の「生」すらtwitterによって広められる。「現在の渋谷」の状況をテレビで知ることは出来ないが、twitterで「渋谷」を検索するとそれは容易に獲得する事が出来る(時には写真や動画付きで)。
3人のテレビマンが「お前はただの現在にすぎない」というタイトルの本を出版し、テレビの本質は「現在性」であるとの思想にたどり着いたのは1969年です。しかし、40年以上経った現在でもその本質は変わっていない。テレビとは「現在性」のメディアのままであり、そこにメディアとしてのユニークさと思想がある。逆に、現在性にしか頼ってこない40年をテレビが過ごしてしまったとも言えます。番組の面白さの問題でも、情報の質の問題でもなく、「現在性をインターネットが代替してしまっている事」がテレビ衰退の原因です(もう言い切ってしまいましょう)。ネットが現在性をテレビから奪った。スマートフィンにしろiPadにしろ、手軽に手に入るnotebookにしろ、それらはネットというチームメンバーとして存在するハードウェアです。テレビが現在性を何か新しい形で再獲得出来なければ、テレビというメディアが今後も衰退し続けるのは必然とも言えるでしょう。
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さて、なでしこJAPANの活躍を生中継で見た事を発端としながら、twitterとテレビの現在性を考えてみましたが、2010年代は、あらゆる場面で「現在性」がキーワードになるのではないか。とまで考えています。
twitterユーザは今後も増え続けるでしょう。多くの人達が「わたしの現在性」を容易に獲得します。
1960年代当時のテレビの爆発的普及を振り返ってみても、「現在性」というのは明らかに麻薬的な面白さを持っています。
「今日何してた?」はすでにあまりに素朴で牧歌的な問いにすらなっています。「いまなにしてる?」の氾濫によって。
このような時代に、増強される人間の能力は瞬発力でしょう。我々はいつでもダッシュする事が求められる。ジャジーである事が求められる。ネットネイティヴな世代が社会を動かす年齢層になるにつれ、物事が判断され決定するスピードはどんどん加速されるでしょう。
ネットネイティヴな世代がデフォルトで経験している「わたし」は「わたしなう」であり、「あなた」は「あなたなう」です。「あなたなう」に瞬間的に、ジャジーに(即興的に)反応した「わたしなう」がいて、その「わたしなう」にまた反応する「あなたなう」がいる。そのような「現在性同士のコミュニケーション」による世界が形成される。
それはつまり、今まで何か固体として存在していた「世界」が、絶えず更新される流体のような「世界なう」へと姿を変える(認識が変わる)という事です。固体として認識していた「世界ハヴビーン」と相互作用する、固体としての「わたしハヴビーン」は、ネットという熱源によって現在性の流れの中にどんどん溶けていく。本来、持続の最終的な瞬間として存在していたはずの「現在」が、その前にある長年の(もしくは無限の)「持続」を忘れ「現在性同士のみ」でコミュニケーションを続ける。もしくはそのような流体同士のコミュニケーションが、固体同士のコミュニケーションが占めていた場所を急速に(急速にという点が重要です)奪っていく。そのようなコミュニケーションにより立ち上がっていく(いや、流れだしていくという方が正確でしょうか)「世界なう」。世界の粘度は年々明らかに減少していると言えます。twitterにおけるコミュニケーション/他者の存在認識がTimeLineという「流れる」インターフェースとして表現されていることは、世界の粘度減少と無関係ではないと考えるのが自然でしょう。手紙の文字は炭やインクとして固体として紙に存在しており、紙ではないEメールや携帯メールも「流れる」事はないコミュニケーションでした。しかし、twitterは「流れるTL」としてその本質的な流体の性質を明らかにしていると言えるでしょう。
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さて、勘が良く、また忍耐強いここまでの読者の皆様は、もうお気づきかも知れません。
私は先日、我々の「現在性」を強力に担保しているツールとしてのtwitterを退会しました。
それが何を意味しているのか。潜在意識的に「現在性」の氾濫が持つ危険性をこれまでになく強く感じているからでしょう。
我々の認識が、「世界」から「世界なう」になった時に、我々は何を得るのか。同時に何を失うのか。致命的な何かを失うのではないか。我々には流体としての「世界なう」の中において、流体としての(現在としての)「わたしなう」として存在していく覚悟が果たしてあるのか。そこで従来固体としての「わたしハヴビーン」によって保たれていた自我を失う人達が大勢現れるのではないか。流体としての「世界なう」に固体としての「わたしハヴビーン」は従来通り健やかに存在出来るのか。流体としての「わたしなう」へと自らの存在を器用に変化させていけない人たちは一定数存在するはずであり、その人達は固体として「世界なう」の流れの中に溺れ苦しむのではないか。流れるような自我を形成出来る事が「世界なう」の要請になってしまったときに、「流されない」人間は溺死しないか。
どうやら、今後も思考を続ける必要がありそうです。
危うさを感じるのは杞憂でしょうか。皆様、どうお考えでしょうか。
なでしこJAPANの優勝を祝いつつ、私は今、得体の知れない危機感を感じています。
適応力/柔軟性が何よりも重視されるこの時代/この国が、失い続けてきたものがあるはずだと。
固体として存在する人間がいない社会は、果たして今後良い方向へ向かう事を期待出来るのかと。
個人としての生活は流体としての「わたしなう」の方が社会との親和性が高い事は明らかですし、それがスマートです。
この国の親や教育は、流体としての「わたしなう」を量産してきたし、今も量産していると言えるでしょう。
しかし、社会には一定数の固体が必要だったし、今後より必要になるのではないかとの思いが強まっています。
ポストモダンなどとっくに終わっています。
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久しぶりに長文を書いて、あまりの脈絡の無さに自ら驚きつつ
同時に、「フォロワー/リプライ」を気にせず長文思考出来る快感を思い出しながら
量として、約38連続tweet分の考察の跡を
海の日の晴れた朝に
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ここで予め、少し、「筆者の状況なう」をご説明させて頂きましょう。
1.ついさっき、「なでしこJAPANがワールドカップ優勝」という、エキサイティングな経験を生中継のテレビにより経験したばかりだという事。
(余談ですが、澤選手の2点目については奇跡としか言いようがありません。そしてUSA as No.1という建国以来ただ一つ守ってきたアイデンティティを経済的に急速に失いつつあり、アフガニスタンからの撤退と軍事費縮小を余儀なくされ、スペースシャトルをもうこれ以上打ち上げる予算がなく、宇宙開発の面でロシアを打ち負かす事がとうとう叶わなかったという状況の中で、すでに自信を失いかけていたアメリカ国民が、大戦以降は無意識的に「属国(=可愛いペット)」として認識している東洋の小国Japanに対して、絶対的な優位を誇っている「フィジカル」なスポーツで敗退してしまったというショックはあまりにも大きいと予測することは容易であり、教育がほぼされていないようなバイブルベルトのような地域で今後多少のヒステリックな「日本嫌悪現象」が生じる事は間違いないでしょう)
2.冒頭に述べた通り、約1年半ヘヴィユーザとして使用していたtwitterを退会したという事。それはつまり、仮想世界において「AAAIAUA」という名前によって場所と時間を超えて存在していた「現在」の喪失であるという事。
3.ここ最近「お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か」という日本が誇るテレビマン3人のテレビ論を少しずつ読んでいるという事。テレビは生、現在性、ジャズのような即興性のメディアだとの議論がなされている事。
この3つの状況に共通するもの。それは「現在性」という問題です。
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twitter以前から、「自分に何が起こったか。」を人に伝えたいとの思いは全世界共通/全時代共通の基本的な人間の欲求であるという事は、マズローの5段階説を考慮してもある程度は正しいと言えることでしょう。認識欲求であるとか、自我欲求を満たすために、現代人はネットというツールを駆使している訳です。これは裏返すと、現代は物理的なレベルで認識欲求や自我欲求が満たされにくい時代だとも言うことが出来る。時代性がtwitterの普及を導いたのか、twitterが予め存在していた時代性を促進したのか、それとも両方が相互的に作用しているのか。これも面白い議題ですが、本論から逸脱しすぎるので省略しましょう。
さて、twitterの「いまなにしてる?」という問いかけの新規性/革新性は、従来いつの時代、どこの土地においても当たり前に会話の発端になっていた「今日どうだった?=How's today?」もしくは「最近どうよ?=What's up?」といった「現状確認」に対して使用されていた「一日/数日/数時間」という単位を「いま。なう」という無限小(いまは瞬間ですから、それは無限小の単位です)に置き換えてしまう事によって、24時間いつでもどこでも好きな時に好きなだけ認識欲求を満たしてくれる(自分のフォロワーが自分のtweetを「見てくれている」という認識によって)といった、いわば全てが「24時間化」されていく21世紀の必然にフィットしたコンセプトにあったと言えます。
twitterに限らず、世界中に張り巡らされている「インターネット」は、24時間、どこかで誰かがその存在を主張している、そしてそれがダイレクトに見えてしまうという強力な機能をあらかじめ持っています。
「インターネットへのアクセス権」は、少々乱暴に言い換えてしまえば「現在性へのアクセス権」です。
その「現在性へのアクセス権」は、以前は物理的な距離に縛られており且つその存在時間に対して鈍感であった「私という存在」を、「私という存在なう」もしくは「私という存在at 9pm 2011/7/18」に置き換えてしまった。私という存在に時間という属性を強力に付加した。それがサーバ上に残るため、あらゆる過去の時間に存在していた「私」と「あなた」という幽霊が半永久的にさまようのがネット空間という事になっている。そしてそれは正に「今」も増殖している。更新されている。
そのような「現在性の民主化」とも言えるような現象は、あらゆるSNSによって世界的に、爆発的に起こっていると言えます。
忘れてはならない事は「インターネット上の存在」は全て幽霊だ。という事です。それらの存在はアップした瞬間に、幽霊(=過去に存在し、今は存在しない)になります。現実の存在とは基本的に別の性質を持っていると考えるのが一般的もしくは健康的と言える。現実の存在というものは時間によって切り取る事が出来ないからです(それは死者にのみ可能です)。
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さて、ここで、テレビについて考えてみます。
テレビの衰退は「番組の質が低くなった」事が原因なのか、「メディアとしての役割/ジャーナリズムとしての機能を正常に果たしていない」事が原因なのか。実はちょっと本質的には違うんじゃないか。という疑問を抱いています。
一つ、仮定として「テレビが現在性を失った」事が最も本質的なテレビ衰退の原因だとしてみましょう。
それは「テレビ業界」の中に存在する問題なのか。それも多少はあるかもしれないが、根本的には違うのではないか。「現在性」を「インターネット」が急速に獲得した事が真因なのではないかと疑っている訳です。
テレビのニュースで流れてくる事。それを「私はすでに知っている。インターネットを通して」。これが現在のテレビニュースが抱えてしまっている致命的な弱点です。テレビのニュースはネットユーザにとってほぼ全てがオールドになってしまった。ここ数年で、従来テレビが独占していた「現在性」をネットが代替出来るようになっています。ニコニコ動画が生放送を始め、USTREAMが普及し、twitterが「ネット上の生」を急速的に広める機能を担っている。いや、ネット上の生だけではない、現実の「生」すらtwitterによって広められる。「現在の渋谷」の状況をテレビで知ることは出来ないが、twitterで「渋谷」を検索するとそれは容易に獲得する事が出来る(時には写真や動画付きで)。
3人のテレビマンが「お前はただの現在にすぎない」というタイトルの本を出版し、テレビの本質は「現在性」であるとの思想にたどり着いたのは1969年です。しかし、40年以上経った現在でもその本質は変わっていない。テレビとは「現在性」のメディアのままであり、そこにメディアとしてのユニークさと思想がある。逆に、現在性にしか頼ってこない40年をテレビが過ごしてしまったとも言えます。番組の面白さの問題でも、情報の質の問題でもなく、「現在性をインターネットが代替してしまっている事」がテレビ衰退の原因です(もう言い切ってしまいましょう)。ネットが現在性をテレビから奪った。スマートフィンにしろiPadにしろ、手軽に手に入るnotebookにしろ、それらはネットというチームメンバーとして存在するハードウェアです。テレビが現在性を何か新しい形で再獲得出来なければ、テレビというメディアが今後も衰退し続けるのは必然とも言えるでしょう。
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さて、なでしこJAPANの活躍を生中継で見た事を発端としながら、twitterとテレビの現在性を考えてみましたが、2010年代は、あらゆる場面で「現在性」がキーワードになるのではないか。とまで考えています。
twitterユーザは今後も増え続けるでしょう。多くの人達が「わたしの現在性」を容易に獲得します。
1960年代当時のテレビの爆発的普及を振り返ってみても、「現在性」というのは明らかに麻薬的な面白さを持っています。
「今日何してた?」はすでにあまりに素朴で牧歌的な問いにすらなっています。「いまなにしてる?」の氾濫によって。
このような時代に、増強される人間の能力は瞬発力でしょう。我々はいつでもダッシュする事が求められる。ジャジーである事が求められる。ネットネイティヴな世代が社会を動かす年齢層になるにつれ、物事が判断され決定するスピードはどんどん加速されるでしょう。
ネットネイティヴな世代がデフォルトで経験している「わたし」は「わたしなう」であり、「あなた」は「あなたなう」です。「あなたなう」に瞬間的に、ジャジーに(即興的に)反応した「わたしなう」がいて、その「わたしなう」にまた反応する「あなたなう」がいる。そのような「現在性同士のコミュニケーション」による世界が形成される。
それはつまり、今まで何か固体として存在していた「世界」が、絶えず更新される流体のような「世界なう」へと姿を変える(認識が変わる)という事です。固体として認識していた「世界ハヴビーン」と相互作用する、固体としての「わたしハヴビーン」は、ネットという熱源によって現在性の流れの中にどんどん溶けていく。本来、持続の最終的な瞬間として存在していたはずの「現在」が、その前にある長年の(もしくは無限の)「持続」を忘れ「現在性同士のみ」でコミュニケーションを続ける。もしくはそのような流体同士のコミュニケーションが、固体同士のコミュニケーションが占めていた場所を急速に(急速にという点が重要です)奪っていく。そのようなコミュニケーションにより立ち上がっていく(いや、流れだしていくという方が正確でしょうか)「世界なう」。世界の粘度は年々明らかに減少していると言えます。twitterにおけるコミュニケーション/他者の存在認識がTimeLineという「流れる」インターフェースとして表現されていることは、世界の粘度減少と無関係ではないと考えるのが自然でしょう。手紙の文字は炭やインクとして固体として紙に存在しており、紙ではないEメールや携帯メールも「流れる」事はないコミュニケーションでした。しかし、twitterは「流れるTL」としてその本質的な流体の性質を明らかにしていると言えるでしょう。
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さて、勘が良く、また忍耐強いここまでの読者の皆様は、もうお気づきかも知れません。
私は先日、我々の「現在性」を強力に担保しているツールとしてのtwitterを退会しました。
それが何を意味しているのか。潜在意識的に「現在性」の氾濫が持つ危険性をこれまでになく強く感じているからでしょう。
我々の認識が、「世界」から「世界なう」になった時に、我々は何を得るのか。同時に何を失うのか。致命的な何かを失うのではないか。我々には流体としての「世界なう」の中において、流体としての(現在としての)「わたしなう」として存在していく覚悟が果たしてあるのか。そこで従来固体としての「わたしハヴビーン」によって保たれていた自我を失う人達が大勢現れるのではないか。流体としての「世界なう」に固体としての「わたしハヴビーン」は従来通り健やかに存在出来るのか。流体としての「わたしなう」へと自らの存在を器用に変化させていけない人たちは一定数存在するはずであり、その人達は固体として「世界なう」の流れの中に溺れ苦しむのではないか。流れるような自我を形成出来る事が「世界なう」の要請になってしまったときに、「流されない」人間は溺死しないか。
どうやら、今後も思考を続ける必要がありそうです。
危うさを感じるのは杞憂でしょうか。皆様、どうお考えでしょうか。
なでしこJAPANの優勝を祝いつつ、私は今、得体の知れない危機感を感じています。
適応力/柔軟性が何よりも重視されるこの時代/この国が、失い続けてきたものがあるはずだと。
固体として存在する人間がいない社会は、果たして今後良い方向へ向かう事を期待出来るのかと。
個人としての生活は流体としての「わたしなう」の方が社会との親和性が高い事は明らかですし、それがスマートです。
この国の親や教育は、流体としての「わたしなう」を量産してきたし、今も量産していると言えるでしょう。
しかし、社会には一定数の固体が必要だったし、今後より必要になるのではないかとの思いが強まっています。
ポストモダンなどとっくに終わっています。
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久しぶりに長文を書いて、あまりの脈絡の無さに自ら驚きつつ
同時に、「フォロワー/リプライ」を気にせず長文思考出来る快感を思い出しながら
量として、約38連続tweet分の考察の跡を
海の日の晴れた朝に
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